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29件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[29] 法華経の智慧381

投稿者: noaa 投稿日:2015年12月 6日(日)21時22分31秒 KD106143198073.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

381  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 3日(火)14時52分59秒   通報
■ 祈っていると雑念がわくが

遠藤: 「祈り」ということで、「祈っていても、雑念がわいてきて困るのですが」という質問があるのですが。

名誉会長: 雑念がわいたってかまわない。人間だから当然でしよう。そのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばいいんです。
 雑念だって、一念三千の生命の働き以外のものではない。ゆえに、そういう雑念でさえも、題目によって、功徳に変わるのです。
 祈りかたに 「こうあらねばならない」という形式はない。無作でいい。かしこばって、こちこちになって拝んだって、心の動きは、どうしようもない。信心が強くなれば、自然のうちに一念が定まってきます。
 また、祈っていて浮かびあがってくる雑念とか思いとかは、その時の自分が気になっている課題なのだから、雑念などと言わないで、何でも、きちっと祈りに変えたほうがいいでしよう。
 大きなことだけを祈るのではなく、小さな小さなことも、ひとつひとつ、きちっと祈りを込めて勝ちとり、固めていくことです。もちろん神経質になる必要はない。ともかく、ありのままの姿で、題目を真剣に唱えていくことだ。

遠藤: もうひとつ、「願いは、いっぺんに、たくさんあってもいいのでしょうか。一つずつ解決していったほうがいいのでしようか」という問いもあります。

名誉会長: 祈りは、いくら多くてもいい。たくさん願いがある人は、その分、真剣に、たくさんやればいいのです。たくさん買い物をしたければ、たくさんお金がいる。それだけのことです。また、それが道理です。

斉藤: そういう質問は、何か「御本尊が祈りを聞きとどけてくれて、超能力で解決してくれる」というような錯覚があるのではないでしょうか。

名誉会長: だれが願いを叶えるのか。自分です。自分の信心と努力です。他のだれでもない。自分の買い物に、自分のお金を使うのと同じです。自分のお金がなければならない。自分の信心の実践が「お金」です。


■ 「祈りがなかなか叶わない」

須田: 「祈りが、なかなか叶わない」と悩んでいる人もいますが ---- 。

名誉会長: 「祈りとして叶わざるなし」の信心です。まず、そう決めることです。そのうえで、ある時点だけを見れば、祈りが叶う場合も、叶わない場合もある。しかし、それでも祈りを「続ければ」最後には必ず一番いい方向に行く。あとから振り返ってみると、それがわかるものです。
 何より、そうやって苦労することで自分が強くなっている。祈って、何でもすぐに、パッと叶ったのでは、人間が堕落してしまう。
 努力も苦しみもない安易な人生になってしまう。薄っペらな人間ができます。それでは何のための信仰か。次々と、いろんな出来事がある。いろんな悩みが出てくる。その連続です、人生は。いろんなことがあるから、人生は充実するし、楽しい。成長もできる。広々とした、強い境涯が開ける。

遠藤: たしかに、全員が「宝くじに当たりたい」と祈っても、叶うわけがありません。
名誉会長: 何でも祈って、すぐに叶ったのでは「手品」です。「道理」に反する。お米も入れないで、炊飯器のスイツチを入れて、ご飯ができるわけがない。仏法は道理であり、信心即生活の正しい「軌道」を教えている。「現実」を無視した信仰はない。現実のうえで努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。




[28] 法華経の智慧381

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)21時20分35秒 KD106143198073.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

381  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 3日(火)14時52分59秒   通報
■ 祈っていると雑念がわくが

遠藤: 「祈り」ということで、「祈っていても、雑念がわいてきて困るのですが」という質問があるのですが。

名誉会長: 雑念がわいたってかまわない。人間だから当然でしよう。そのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばいいんです。
 雑念だって、一念三千の生命の働き以外のものではない。ゆえに、そういう雑念でさえも、題目によって、功徳に変わるのです。
 祈りかたに 「こうあらねばならない」という形式はない。無作でいい。かしこばって、こちこちになって拝んだって、心の動きは、どうしようもない。信心が強くなれば、自然のうちに一念が定まってきます。
 また、祈っていて浮かびあがってくる雑念とか思いとかは、その時の自分が気になっている課題なのだから、雑念などと言わないで、何でも、きちっと祈りに変えたほうがいいでしよう。
 大きなことだけを祈るのではなく、小さな小さなことも、ひとつひとつ、きちっと祈りを込めて勝ちとり、固めていくことです。もちろん神経質になる必要はない。ともかく、ありのままの姿で、題目を真剣に唱えていくことだ。

遠藤: もうひとつ、「願いは、いっぺんに、たくさんあってもいいのでしょうか。一つずつ解決していったほうがいいのでしようか」という問いもあります。

名誉会長: 祈りは、いくら多くてもいい。たくさん願いがある人は、その分、真剣に、たくさんやればいいのです。たくさん買い物をしたければ、たくさんお金がいる。それだけのことです。また、それが道理です。

斉藤: そういう質問は、何か「御本尊が祈りを聞きとどけてくれて、超能力で解決してくれる」というような錯覚があるのではないでしょうか。

名誉会長: だれが願いを叶えるのか。自分です。自分の信心と努力です。他のだれでもない。自分の買い物に、自分のお金を使うのと同じです。自分のお金がなければならない。自分の信心の実践が「お金」です。


■ 「祈りがなかなか叶わない」

須田: 「祈りが、なかなか叶わない」と悩んでいる人もいますが ---- 。

名誉会長: 「祈りとして叶わざるなし」の信心です。まず、そう決めることです。そのうえで、ある時点だけを見れば、祈りが叶う場合も、叶わない場合もある。しかし、それでも祈りを「続ければ」最後には必ず一番いい方向に行く。あとから振り返ってみると、それがわかるものです。
 何より、そうやって苦労することで自分が強くなっている。祈って、何でもすぐに、パッと叶ったのでは、人間が堕落してしまう。
 努力も苦しみもない安易な人生になってしまう。薄っペらな人間ができます。それでは何のための信仰か。次々と、いろんな出来事がある。いろんな悩みが出てくる。その連続です、人生は。いろんなことがあるから、人生は充実するし、楽しい。成長もできる。広々とした、強い境涯が開ける。

遠藤: たしかに、全員が「宝くじに当たりたい」と祈っても、叶うわけがありません。
名誉会長: 何でも祈って、すぐに叶ったのでは「手品」です。「道理」に反する。お米も入れないで、炊飯器のスイツチを入れて、ご飯ができるわけがない。仏法は道理であり、信心即生活の正しい「軌道」を教えている。「現実」を無視した信仰はない。現実のうえで努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。



[27] 法華経の智慧382

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)07時32分26秒 KD106143220125.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

智慧382  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 3日(火)17時31分12秒   通報
■ 「祈りに応えない宗教は無益」 ---- 牧口先生

遠藤: よく「現世利益を説く宗教は低級だ」という批判がありますが、こういう安易な「おすがり信仰」は、たしかに否定されるべきだと思います。

須田: いわゆる「呪術」的な祈りですね。神秘的な力を動かして、利己的な願いを叶えようという ---- 。

斉藤: 一方には、「宗教は内面の幸福だけを目指している」という宗教観があり、一方には「呪術的な現世利益を説く宗教があります。どちらも、色心不二という人間の現実の「生活」から遊離している。その点で共通するのではないでしようか。

遠藤: 一方は観念的であり、一方は荒唐無稽です。

須田: 一方は無慈悲であり、一方は智慧がないとも言えると思います。

名誉会長: 真実の宗教は、そのどちらでもない。「生活」に即して離れず、「生活」を向上させる根本の法則を示している。牧口先生は、これを「価値創造」と呼んだ。「祈りに応じて価値を与えない宗教は“無益”な宗教だ」と言われている。<「幸福生活の祈願に応ずる価値の供給によってのみ宗教の存在があり、無益の宗教は人の信を繋ぐに足らぬものである」『牧口常三郎全集』第九巻>
  これは当時の著名な科学者の宗教論に対する反論の中の言葉です。この学者は“自然の驚異的な摂理には神を感じる”が、自然科学によって知ることができない未知のものは未知としていくべきであり、“自分の利益のために神に祈ったりするのは、おかしい”という主張であった。

須田: 典型的な「現世利益批判」ですね。

名誉会長: それに対して、牧口先生は“人間生活の価値創造に関わらない宗教は、無益の宗教である”という立場です。
 「生活」を無視することは「人間」を無視することです。驚異的なのは自然だけではない。人間の生命、生活、人生も驚異であり、いかなる状況でも価値を創造して勝利していける人間の生命力の驚異を探求すべきであると考えておられた。
 先生は、「自然科学」だけあっても、人間をどう幸福にするかという「価値科学」がなければいけないとも言われた。卓見です。現代文明の根本的欠陥を突いている。

斉藤: 牧口先生は、外国の有名な哲学者が、宗教だけの「聖の価値」を主張したことにも反対しておられますね。宗教のための宗教では意味がない、と。
 「聖」の価値とか、「安心立命の境地」とか言っても、それは個人的には自分の生命を伸ばす「利の価値」であり、社会的には「道徳的価値(善の価値)」である。「人を救い、世を救うことを除いて、宗教の社会的存立の意義があろうか。人を救うことは利的価値ではないか。世を救うことは道徳的価値ではないか」(『牧口常三郎全集』第五巻、現代かなづかい)と。

名誉会長: 要するに、「人を救い、世を救う」という現実の闘争を避けて、そのほかに「聖」などという別次元の高尚な価値があるかのようにいうのは偽善です。
 人を救い、世を救う ---- 広宣流布です。現実と四つに組んだ、この大闘争こそが価値創造であり、真の宗教です。「聖」というなら、この大闘争のまっただなかにしか「聖」なるものはない。「平和」だって「現世の利益」ではないですか。
 観世音菩薩の「世」の一字には、深い意味がある。現実の「世」から離れないのです。「世」とは社会です。「社会の幸福」への挑戦なのです。
 「世」と対比すれば、「音」とは、個々の生命の叫びであり、「個人の幸福」への希求です。“社会の繁栄”と“個人の幸福”を一致させていこうというのが観世音であり、法華経なのです。

遠藤: たしかに、個人の幸福だけに偏ると利己主義になり、社会の要請だけに偏ると全体主義や国家主義
に近づきます。その調和は実に難しい。



[26] 法華経の智慧383

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)07時29分32秒 KD106143220125.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

383  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 4日(水)09時11分31秒   通報
■ 個人と社会、自由と平等の調和

須田: 池田先生はインドのデリー大学の「名誉文学博士」になられましたが、来日されたメータ副総長も「中道」を強調されていましたね。

名誉会長: そうだね。まれにみる大哲学者です。
 政治学の大家の副総長は、こう言われていた。
 「近代の西洋の伝統的な考え方は、『個人主義』と『集団主義』の間を揺れ動いてきました。その結果、不幸にも、もたらされたのは『自我の喪失』でした。
 ガンジーをはじめインドの思想家は、この二つの“主義”に対して、古代からの伝統に立ち返ることで応えようとしました。それは、ものごとを相互の関係性でとらえる『法(ダルマ)』の思想、そして超越した究極の理想である『涅槃』の思想です。
 牧口氏、戸田氏が強調したのも、一人一人が社会との関わりの中で価値を創造することです」と。
 価値創造の思想から見れば、「個人の幸福」と「社会の繁栄」は決して対立するものではない。自転と公転のような関係です。
 社会に尽くすことによって、個人が幸福になり、社会は「一人の人」の幸福を目的としなければならない。

須田: “一人は皆のために、皆は一人のために”ですね。

名誉会長: メータ副総長は言われた。「宇宙は、有機的な関係で結ばれている。すなわち、人間と自然、人間と人間、そして人間とコスモス(宇宙)です。
 これは『部分』と『全体』という関係ではない。人間も自然も、宇宙も、それ自体が『全体』であり、それ自体が『目的』をもつ『かけがえのないもの』なのです」。
 深い生命観です。この「法(ダルマ)」という正しき軌道に則って進むのが「中道」です。

遠藤: “まん中の道”という意味ではありませんね。

名誉会長: “道に中(あた)る”と読む。命中とか、的中の中です。正しき「人道」に即して離れない ---- いつも「道に中っている」「正道に適っている」、それが中道です。人間主義のことです。
 副総長は、19世紀は「自由を追求した世紀」であり、二十世紀は「平等を追求した世紀」であった。二十一世紀は「正義を追求する世紀」でなければならないと言われた。自由と平等、個人主義、その両方を調和させるのが「正義」です。「法」です。「中道」です。「第三文明」です。

遠藤: 明快な二十一世紀論ですね。

名誉会長: 先ほどの「祈り」の話に戻ると、生活即信心、信心即努力という「正道」を、徹底的に進むのが「中道」です。観念的な“気休め信仰”でもなければ、安易な“手品の信仰”でもない。

斉藤: 祈りが叶うまで「祈り続ける」「努力し続ける」。その結果、最後は所願満足になっていく ----  。その戦いですね。

名誉会長: 祈りが叶う叶わないは、信心による。また、それぞれの宿業的な根の深さも違うし、時間がかかる場合もある。いろんな意味がある場合がある。しかし「祈り」というエンジンによって、必ず、祈った瞬間から「良い方向へ」「良い方向へ」と変化が始まっていることは間違いない。

須田: 「自分中心の祈り」でもよいのでしようか。

名誉会長: それは仕方がない。自分中心が凡夫の常です。凡夫のありのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばよい。無理に高尚な格好をしても、それは、「うその自分」です。うそは御本尊に通じない。
 自分が一番悩んでいること、一番願っていることを唱題に託していけば、自然のうちに境涯が開けていく。だんだんと、自分のことだけでなく、友の幸せのこと、広宣流布のことを祈れる自分になってくる。また、そういう大きい祈りに挑戦することも大事でしょう。全部、自分の自由です



[25] 法華経の智慧384

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)07時28分7秒 KD106143220125.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

384  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 4日(水)12時25分56秒   通報
■ 「前も敵でした。後ろも敵でした」 ---- 鄧穎超夫人

名誉会長: 私は毎日、ただ「広宣流布」と、会員の皆さまの「健康」「長寿」「繁栄」「多幸」を、それだけを祈っている。これが私の根本的責任であり、使命であると自覚しています。
 責任者というものは、簡単なものではない。(中国の周恩来総理夫人の)鄧頴超さんの言葉は忘れられない。「前も敵でした。後ろも敵でした。毎日、毎日が、そうでした。何十年間、そうでした。私たちは戦いました」と。
 創価学会も同じです。すべてが敵だった。政治家も、坊主も、マスコミも、反逆者、全部が連合軍になって、民衆の行進を弾圧し、私を狙い撃ちにしてきた。
 ありとあらゆる卑劣な手段を使って。それを一人、戦い、乗り越え、会員を守って私は生きてきた。
 来る日も来る日も、一瞬の油断もしなかった。できなかった。そして晴れ晴れと、創価学会を世界的な王者の団体にしました。
 ただ御本尊に「広宣流布の希望の道を無限に開かせたまえ」と祈ってきた。幹部も、同じ心であっていただきたい。その「心」がなくなったら官僚主義です。
 わが地域の学会員は一人のこらず、絶対に幸福にしてみせる!その祈りで、一生懸命、尽くしていきなさい。自分のエゴなんか、かなぐり捨てなければ、戦いはできない。勝つか負けるか。死ぬか生きるか、それが勝負です。甘く考えたら、とんでもないことになる。
 私の母校・富士短期大学(当時は大世学院)の創立者・高田勇道先生は、亡くなる一カ月前に、こう遺言された。「教育とは学生に生命を与えてゆくことである」。
 崇高です。教育とは学生に我が生命を捧げることだと決めておられた。学生・生徒を「わが子」と同じように、いな、わが子を後まわしにし、犠牲にしてでも、最大に大切にし、愛し、尽くしていけるか否か。それで、まことの人間教育者か否かが決まる。
 広布の指導者も同じです。「広宣流布」をしているのは、この地球では創価学会しかない。唯一の仏意仏勅の団体です。学会の広宣流布の組織が、どれほど尊いか。
 広宣流布に進む学会の軌道は、ある意味で「法」です。この法に則って進むことによって、自分の成仏、人間革命がある。「公転」と「自転」の関係てす。
 自分中心は、自転だけあって、公転がないようなものだ。いいように見えて、宇宙の軌道から外れ、寂しき生命の孤児になってしまう。自分中心でなく、法が中心でなければならない。「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」です。


■ 広布の行動で自身が開花

名誉会長: わが身は華です。「妙法蓮華経」の当体だ。その蓮華を咲かせるのは、広宣流布の活動しかないのです。
 自分が拝んでいるだけで広宣流布をしないのは、「水」だけあって「太陽の光」がないようなものだ。
 本当の自分自身の開花はない。広宣流布のために尽くしていけば、必ず、自分が守られる。陣列から離れてはならない。創価学会自体が「安穏城」であり「宝処」なのです。どれだけ皆、守られていることか。
 戸田先生が「戸田の命よりも大事」といわれた学会の組織なのです。
 もし、広宣流布の組織を軽く見たら、その人自身が梵天帝釈、諸天善神に軽く扱われてしまう。相手にされない。ともかく、どんな有名人よりも、地道に学会活動する無名の同志が宝なのです。

遠藤: 先生が、デリー大学一行との語らいで話されていたアソカ大王のエピソードを思い出します。
 ある時、アソカ大王が、仏弟子たちの塔(ストウーパ) を供養して回りました。大王は、舎利弗や目連、迦葉、阿難などの塔には、たくさんの供養をして合掌しました。しかし、薄拘羅という仏弟子の塔には、わずかな供養しかしなかった。
 おつきの人間が不思議に思って、大王に尋ねました。「この人も等しく仏弟子であります。どうして差をつけられるのですか?」。
 大王は答えました。「彼は、自分自身は一生懸命に修行していたようだが、人のために法を説かず、世間のために貢献しなかったからだ」と。仏法の広宣流布に尽くしたかどうか。人と社会に尽くしたかどうか。それが基準でした。

須田: その話を受けて、アソカ大王の研究者のラナ教授が「知識を自分の中にとどめるだけで、人のために分かち合い、役立てていかないと、知識は、かえって“毒”になる」と言っておられた。印象的な言葉でした。

遠藤: 日本は“毒薬”のニュースが続いていますが ---- “慈悲なき社会”の象徴ような気がしますね。

名誉会長: “毒”は、冷酷な地獄の心の象徴です。
 地獄界・餓鬼界の人間は、人の幸福を恨み、嫉み、人をも地獄に堕としたくてしかたがない。
 反対に、仏界・菩薩界の人間は、人をも幸福にしたくてしかたがない。
 創価学会は、自分も幸福になり、人をも幸福にしていく、慈悲の団体です。広宣流布とは、今の社会に一番欠けている、この「慈悲の生命流」を拡大して、潤していく運動なのです。
 自分の存在は小さく見えても、何か動けば、波ができる。一波、二波、三波と波が続けば、その「流れ」それ自体が「広宣流布」なのです。
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「御義口伝」から
普門品五箇の大事
第五 三十三身利益の事

 御義口伝に云く三十とは三千の法門なり、三身とは三諦の法門なり云云、又云く卅三身とは十界に三身づつ具すれば十界には三十・本の三身を加うれば卅三身なり、所詮三とは三業なり十とは十界なり三とは三毒なり身とは一切衆生の身なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は卅三身の利益なり云云。(御書 p777)

 御義口伝では、このように仰せである。
 「三十三身」の「三十」とは、一念三千の法門を示し、また「三身」とは空・仮・中・三諦の法門を示している。
 また、次のようにも仰せてある。
 「卅三身」とは、十界のそれぞれに(法・報・応の)三身か具わっているので、十界の全体では三十身か具わり、それに本の三身、すなわち無始無終の宇宙生命の三身を加えれば三十三身となる。要するに、十界のどの生命にも、三身か本来、具わっている。
 結局、三十三身の「三」とは身(行動)・口(発言)意(感情・思考)の三業(三つのふるまい)であり、「十」とは十界であり、「三」とは貪(むさぽり)・瞋(いかり)・癡(おろか)の三毒のことであり、「身」とは一切衆生の身である。今、日蓮とその門下で南無妙法寺華経と唱える者は、凡夫のままで、三十三身の利益を得るのである。
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遠藤: それが無慈悲で残酷な社会の“毒”を浄化する根本だと思います。



[24] 法華経の智慧385

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)07時26分32秒 KD106143220125.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

慧385  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 4日(水)18時18分11秒   通報
■ 国家主義の“毒”を見破れ

斉藤: “毒”というと、思い出すのは、ユダヤ人への迫害の歴史を探求した学者の言葉です。
 どうして文明国ドイツで、ヒトラーのような人間が首相になれたのか?どうして「ユダヤ人こそ一切の悪や不幸の根源で、迫害するのが当然」などという荒唐無稽な思想に人々が染まってしまったのか?それは「反ユダヤ主義の毒を少しずつ服用させられていたおかげで、ヒトラーという致死性薬物にまで免疫になっていた、ということなのだろうか」「何世代もつみ重なった激しいユダヤ人排斥主義の効果のせいで、彼らの倫理感覚、少なくともユダヤ人に関する倫理感覚が退化してしまっていたからなのだろうか」(ルーシ・S・ダビドピッチ著『ユダヤ人はなぜ殺されたか』サイマル出版会)
 “少しずつ毒に慣れさせていく”というお恐ろしさを強く感じます。

名誉会長: 日本も同じです。人権感覚がますます狂ってきている。民衆を国家の犠牲にして恥じない国家主義が強まっている。危険です。 だから我々が立ち上がる以外にない。

遠藤: 日本国憲法の根底には、いわば「ソフト・パワーで平和を創造していこう」という理想があると思うんですが、それが踏みにじられようとしています。

須田: 侵略戦争の正当化も、すごい勢いで進められていますね。特に、若い世代に対して影響力の強いメディアでも、それが顕著で、危険な限りです。

斉藤: その一方、“抵抗の精神”がなくなり、いよいよ「長いものには巻かれよ」という雰囲気になっている。マスコミもそうです。現状追随の卑劣な国民性が、つくづく、なさけなくなります。


■ 日本の宗教は「権力の奴隷」

名誉会長: 日本人に「権力に抵抗する精神」が弱い根本は、宗教が骨抜きにされてきたからです。これは福沢諭吉が明快に論じている。『文明論之概略』です。遠藤君は、慶応(大学院)だったね。

遠藤: はい。「僧侶は政府の奴隷」なりという強烈な言葉を覚えています。

名誉会長: 彼は「宗教は人間の心の内部で働くものであるから、最も自由、最も独立してあるべきで、微塵も他から制御されず、微塵も他の力に頼らないで、社会に存在すべきはずであるのに、我が日本においてはそうではない」と嘆いている。(現代語訳)
 仏教も、はじめから権力者の庇護を頼み、権力者にすり寄り、権力の余光を借りようとし、はなはだしいのは政府から爵位(貴族の階級)をもらって喜んでいる僧侶がいる、と。寺がいっぱい建って、仏教が栄えているように見えても、それは「権力の威光」を借りたものであって、独立した「宗教の威力」によるものではない、と。
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「御義口伝」から
廿八品に一文充の大事
普門品

慈眼オモチテ衆生ヲ視給ウ福聚ノ海無量ナリ
 此の文は法界の依正妙法なる故に平等一子の慈悲なり依正福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり云云。(御書 p792)

 観世青菩薩普門品には「慈眼をもって衆生を視る 福聚の海無量なり」(法華経 p663)とある<「福聚の海」とは、福智すなわち福徳と智慧のことである>。
 この文は、この宇宙の依報(国土・環境)も正報(十界の衆生)もすべてが妙法の当体であるので、観世音菩薩は、すべての衆生か等しく仏子であるとして、大慈悲をそそぐことを示している。したがって生命には依報・正報にわたり、福徳も智慧もともに無量に具わるのである。南無妙法蓮華経は、この無量の福徳と智慧の二つを具えている。
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名誉会長: 近年(明治五年)は、政府が僧侶の肉食妻帯を許した。これはつまり“宗旨を守って肉食せず妻帯しなかった”のではなく、“政府が禁じていたから、しなかった” ---- 実際は陰で相当していたわけだが ---- ということであろう。これでは「僧侶が政府の奴隷であるだけでなく、日本国中、すでに宗教はないと言ってよい」と、痛烈です。

斉藤: 人間の「心の独立」の支柱となるべき宗教が、こうですから、日本人に“権力と戦う精神”が弱いことも当然です。

名誉会長: だからこそ、私たちの運動が、日本の根本的な文化革命、人間革命、精神革命なのです。日蓮大聖人は、“権力の奴隷” の僧侶たちから総攻撃を受けながら、権力者自身をも「わづかの小島のぬし」(御書 p911) と見おろしておられた。世間は有上道、仏法は無上道。どんな権力者といえども、妙法にはかなわないし、謙虚に正義を求めていくべきだという信念であられた。
  先ほど牧口先生の価値論の話が出た。「人を救い、世を救ってこそ宗教だ」という牧口先生の叫びは、まさに日蓮大聖人直結です。
 宗教の源泉から、社会へ社会へと精神的水流を送り続けていく。社会とかかわり続けていく運動です。それが観音菩薩の三十三身の精神でもある。
 〈観音は、次の三十三身をもって、世を救っていくと説かれている。仏身、辟支仏の身、声聞の身、梵天の身、帝釈の身、自在天の身、大自在天の身、天大将軍の身、毘沙門の身、小王の身、長者の身、居士の身、宰官の身、婆羅門の身、比丘、比丘尼、優婆塞(在家の男性信者)、優婆夷(在家の女性信者)の身、長者、居士、宰官、婆羅門の婦女の身、童男、童女の身、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩喉羅伽、執金剛神(法華経 p627)>

斉藤: 経文に挙げられていない姿も含めて、「あらゆる姿で」ということですね。

名誉会長: だから、どんな立場の人でも、尊敬していかねばならない。その人が仏菩薩の現れかもしれない。仏菩薩の働きをする場合がある。立場や職業や見かけで、人を判断しては絶対にならない。



[23] 法華経の智慧386

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)07時24分59秒 KD106143220125.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

386  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 5日(木)09時02分19秒   通報
■ 「宗教なき政治は『死体』」 ---- ガンジー

須田: 法華経は「社会に向かっていく」経なんですね。

名誉会長: 「向かっていく」のです。宗教という根源的次元から、社会を常に浄化し、リフレッシュし、蘇生させていく。
 宗教と政治についても、ガンジーは「宗教なき政治は『死体』のようなものである!」「宗教の欠如した政治は、国家の首を吊るロープであります」(国を死滅させる)と言った。〈ハリーバーウ・ウパッデャイ著『バープー物語』講談社出版サービスセンター>

斉藤: その通りだと思います。

名誉会長: 福沢諭吉は、日本の宗教は「政府の奴隷」と言ったが、ガンジーは反対に、宗教的精神によって政治を道徳的な慈愛あふれるものに変えよと言っているのです。
 日本でも聖徳太子の十七条憲法には「篤く三宝を敬へ」とある。政治的権威も、普遍的な真理に従っていくべきだという思想があった。
 宗教の中には、権力に協力し、「権力の奴隷」になる宗教がある。また「政治とは一切、かかわらない」と閉じこもる宗教もある。これもまた消極的に、権力の悪を助長し、野放しにすることになる。
「権力と一体化して権力者を助ける」のでもなく、「政治から身を引くことによって権力者を助ける」のでもない。第三の道。
 それが日蓮大聖人の「立正安国」です。正法という“永遠の真理”の側から、現実へ常に「向かっていく」「かかわっていく」「変革していく」。これこそが、権力の奴隷にならない唯一の宗教の道なのです。だからこそ、この道には弾圧がある。難がある。だから本物なのです。


■ 「経済にも倫理を」 ---- アマーティア・セン氏

斉藤: 観音品ということで「現世利益」が話題になったわけですが、“現実生活上の価値”を否定する観念的な宗教観では、社会へ脈動はありません。かといって、安易な「ご利益信心」もまた、民衆の内面を開拓することはなく、「わが身を犠牲にしてでも、社会を変革していく」という力を与えることはできません。
 両者は、両極端のようでいて、ともに権力者にとって都合のよい宗教になっていると思います。

名誉会長: 日本では、僧侶だけが「権力の奴隷」になってきたのではない。ほとんどの知識階層も、財界人も、民衆も、同じであった。
 本来は、権力者・指導者は「民衆の手足」です。民衆の手段です。民衆の公僕です。僕です。それが反対になっている。

遠藤: 口では「公僕」といっても、その「公」とは「民衆」のことではなく、「国家」とか「現体制」のことになってしまっている。民衆に仕えるのではなく、体制に仕えるのが「公僕」だという恐るべき錯覚です。

須田: やはり「国家は手段であり、国民の幸福こそ目的なのだ」という民主主義の基本を、徹底的に、日本人の腹の底に叩きこまなければ、何も変わりませんね。

名誉会長: 目に見えない精神的権威(宗教)をもたない人間は、目に見える権威(体制)に従いやすいものです。
 「社会へ向かっていく」「脈動していく」という創価の仏法の舞台は、政治だけではない。三十三身とあるように、社会のすべての領域にわたる。
 たとえば経済もそうです。
 ガンジーは「正義の経済学」を論じた。「拝金主義を教え込み、強者が弱者の犠牲の上に富を増やすことを容易にする経済学は、誤った、荒涼とした科学である。それは死を意味する。これに対し、真の経済学は、社会的正義を象徴し、弱者を等しく含む万人の幸福を促進する」(前掲『ガンディー 私にとっての宗教』)
 「拝金主義」は強者を傲慢にし、弱者を卑屈にし、両者の魂をからっぽにする。
 貧しき人々をはじめとする「万人の幸福」をどうするか。そこに智慧をしぼるのが経済学の真髄です。「正義の経済学」です。「経世済民(世を治め、民を済う)」という「経済」の本義にかなう道です.

斉藤: 池田先生とともに今回、デリー大学の名誉博士になった方に、アマーティア・セン氏(英国ケンブリッジ大学教授)がいます。(1998年12月13日)。
 教授も「正義の経済学」を提唱しています。



[22] 法華経の智慧387

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)07時03分11秒 4.21.149.210.rev.iijmobile.jp  通報   返信・引用

387  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 5日(木)12時10分19秒   通報
名誉会長: アジア人初のノーベル経済学賞を受けた方です。幼少期はタゴールの学園のある町で生まれ、タゴールが名づけ親だという。

斉藤: セン教授は九歳の時に、ベンガルの大飢饉を体験しました。約三百万人が餓死。その体験から「貧しき人々を救う」ための経済学を志したといいます。「経済に倫理を」と主張されています。

名誉会長: 素晴らしいことです。
 牧口先生の価値論も「美・利・善」というように、「利」を価値体系の中に、きちんと位置づけておられる。「善(公共の利益)」に背く「利」は「悪」であり、反価値であることを、はっきりさせている。
 こういう「何のため」という価値観がなければ、経済活動も“金もうけのための金もうけ”“経済成長のための経済成長”というように、野放図に暴走してしまう危険がある。

遠藤: バブル経済が、まさに典型でした。

名誉会長: その意味で、価値論は「正義の経済学」を志向しているといってよい。

須田: 今、日本では“景気の回復”だけが論じられています。まるで景気が回復しさえすれば、すべて問題は解決するかのように。もちろん、それも極めて大事です。しかし社会の根底の価値観が変わらないままで、いまだに経済至上主義の夢を追っているとしたら、こんな不毛なことはありません。

斉藤: 「第二の敗戦」と言われるバブル崩壊から“何も学んでいない”ことになります。


■ 日蓮仏法は「誓願の仏法」

名誉会長: そういう「哲学なき非文化国家」日本を、心豊かなヒューマニズムの国に変えていくのが、広宣流布の運動です。
 ともあれ、日蓮仏法であっても「広宣流布」への戦いを忘れれば、これまでの利己主義の宗教と同じになってしまう。

須田: 宗門がその典型です。

名誉会長: 広宣流布への不惜身命の「行動」があってこそ、わが小宇宙の生命が大宇宙と冥合し、祈りも叶うのです。と 大聖人は「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(御書 p1352)と仰せだ。ならば、自分が法華経の「実践者」であるかどうかだけが問題になる。
 日蓮仏法は「誓願の仏法」です。自分が自分の立場で、御本尊に「私は、これだけ広宣流布を進めます!断じて勝利します!」と誓願することです。その「誓願の祈り」が出発点です。
 観音品には、観世音菩薩の由来について述べたなかに「弘誓の深きこと海の如し」(法華経 p632)とある。<広宣流布しようという誓いは海のように深い>
 その結果、観音は「福聚の海無量なり」(法華経 p636)という大境涯を得たのです。<無量のの福が聚まった海のごとき境涯>
 日蓮大聖人は、この経文について「依正福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」(御書 p792)と言われている。依正 ---- 周囲の境涯も自分自身も、無量の「福徳」と「智慧」にあふれてくるのだと。
 人間には「智者タイプ」の人と、「福者タイプ」の人がいる。それはそれで個性なのだが、智慧があっても福運がなければ、努力は実らず、幸福な人生は創れない。
 福運があっても、智慧がなければ、多くの人に信頼されることは難しいし、多くの人々を救っていくこともできない。両方、兼ね備えた人生が最高です。
 広宣流布という人間性の真髄の軌道を生ききるときに、そういう「無上道の人生」になっていくのです。ゆえに一歩も退かず、押して押して押しきっていくことだ。遠慮してはならない。
 全幹部が一兵卒になって、コマネズミのように動いて動いて、獅子王のごとく語って語って、魂魄をとどめた広布勝利の歴史をつくっていくことだ。その分だけ、自分自身の三世永遠の旅路が黄金に輝いていくのです。



[21] 法華経の智慧388

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)07時01分19秒 4.21.149.210.rev.iijmobile.jp  通報   返信・引用

388  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 5日(木)18時04分40秒   通報
§陀羅尼品§
「広宣流布の『人』を守ります!」
■ “守護の功徳”の莫大を説く

名誉会長: あれは昭和35年(1960年)の七月だった。
 水滸会(人材グループ)の野外研修をした。千葉県のお犬吠埼です。それは、この地の「灯台」のように、全民衆を照らしてほしかったからです。
 戸田先生逝いて二年余。私は会長になったばかり。幹部も皆、若かった。私は、戸田先生の精神を永遠に伝えておきたかった。自分は、いつ倒れるかわからない。後を継ぐ青年に、魂を託したかった。
 夜、「かがり火」を焚いた。赤々と燃え上がる火を、青年たちが円陣で囲んだ。電灯の明かりを使おうと思えば、それもできた。しかし、私は、あえて「かがり火を焚きなさい」と言った。なぜか。この「かがり火」こそが、我々自身なのだと教えたかったのです。「自分自身を燃やしきって、民衆を照らしていくのだ!」と。
 指導者の ---- 幹部の「信心の炎」が燃えているかぎり、全学会員が、その光を目指して、安心して前進できる。燃え上がる「正義の炎」を目指して、全日本の民衆が、いな世界の民衆が、希望を求めて集まってくる。必ず、その日が来る。
 この水滸会の「かがり火」が燃えているかぎり、学会精神の炎が燃えているかぎり、必ず広宣流布はできる。そういう意義を教えたかった。その後、期待通りに、まっすぐ生き抜いた人もいる。誓いを裏切った人間もいる。
 今、私は再び、「信心の炎を燃やせ!」と叫びたい。そこにしか、生きた仏法はないからです。「仏法」といっても「人」です。人の「信心」です。それ以外、まったくよそに求むることなかれです。「信心」の炎が、創価学会に燃えているかぎり、人類を救う「広宣流布」の聖業は進む。どれほど尊い存在か。どれほど命をかけて守るべき学会の組織か。
 「炎」が消えたならば、未来はまっ暗です。そして、「炎」を消そうとして、ありとあらゆる障魔の大風が襲ってくる。しかし「大風吹けば求羅は倍増するなり」(御書 p1136)と日蓮大聖人は仰せだ。
 求羅という虫は、風を得て大きくなり、一切を飲みこむと言われている。そのように、障害があればあるほど、いよいよ「大いなる炎」を燃やして進むのです。
 小さな火なら、風に消える。大きな火なら、風で更に勢いを得る。
 広宣流布は、永遠に闘争です。善と悪との大闘争です。仏と魔との合戦です。
 そして、「陀羅尼品」(第二十六章)とは、仏の胸に燃える「広宣流布への大情熱」を見て、菩薩が、諸天が、鬼神までが、「私が、その大闘争を守護いたします! 広宣流布の実践者を全生命をかけて守ります!仕えます!」と、次々と誓いを述べた。やむにやまれぬ思いの熱気が、霊鷲山を包んだ。そういうドラマです。
 では、概要を見てみよう。


■ 題目の力は仏にも量り知れない

斉藤: はい。陀羅尼品では冒頭、薬王菩薩が釈尊に質問します。「法華経を受持し、読誦し、勉強し、書写する功徳はどれくらいでしょうか」と。
 すると釈尊は、それには答えず、反対に薬王に質問します。
 「もしも八百万億那由佗のガンジス河があって、その河のすべての砂と同じ数の諸仏を供養したとしたら、その功徳はどうだろうか?」薬王は「それは、とてつもなく大きい功徳です」と答えます。
 釈尊は「いいかね、法華経の一つの偈でも受持し、読誦し、信解し、修行したら、その功徳は、これらの諸仏を供養したように、とてつもなく大きいのだよ」と教えるのです。
須田: 法華経の一つの偈を信受しただけで、無量の諸仏を供養したのと同じ功徳を得る ---- 考えてみたら大変なことです。

名誉会長: それはなぜか。法華経こそが、無量の諸仏を生んだ「根源」だからです。なかんずく文底の「南無妙法蓮華経」の一句こそ、一切諸仏を生んだ根源であり、少しのまじり気もないエキス、原液そのものです。

遠藤: 本当に、すごい仏法です。

名誉会長: だから、題目の力を、自分の小さな境涯で、「このくらいだろう」と推し量ってはならない。その功徳は、仏でも知り尽くすことができないと言われている。
 いわんや凡夫が勝手に決めつけるのは、増上慢です。御本尊の無量の功力を小さく見てしまう「弱い信心」であっては、御本尊の力も小さくしか出ない。戸田先生は、よく豊島公会堂で「私の受けた功徳を、この公会堂の大きさとすると、皆さんのは小指くらいだ」と言われていた。
 今は、経済も大変だ。私は、だからこそ、今こそ、皆さんに「大功徳」を受けてもらいたい。くめども尽きない「大福徳」を得てもらいたい。
────────────────────────────────────────
陀羅尼品から

仏、薬王に告げたまわく、
 若し善男子、善女人有って、八百万億那由佗恒河沙等の諸仏を供養せん。汝が意に於いて云何。其の所得の福、寧ろ多しと為んや不や。
 甚だ多し、世尊。
仏の言わく、
 若し善男子、善女人、能く是の経に於いて、乃至一四句偈を受持し、読誦し、解義し、説の如く修行せん、功徳甚だ多し。(法華経 p638)

 仏が薬王菩薩に告げて言われた。
 「もし、善男子、善女人がいて、八百万億那由佗恒河沙等の多くの仏を供養したとしよう。あなたの考えではどうだろうか、それによって得る功徳は多いと思うか、そうではないと思うか」
 「非常に多いと思います。世尊よ」
 仏が言われた。
 「もし、善男子・善女人が、この法華経において、たとえ四句から成る一偈だけても、受持し、読誦し、意味を理解し、経に説くままに実践したならば、その功徳は非常に多いのである」
────────────────────────────────────────
斉藤: 薬王菩薩も、問答を聞いていた人々も、法華経の大功徳に感動しました。
 薬王は、こう誓いいます。「仏さま! 私は、この尊き法華経を弘める人を断じて守護してまいります!」。そして、その人を守るために「陀羅尼呪」を贈りますと言って、呪文のようなものを唱えるのです。

遠藤: 「安爾、曼爾、摩禰、摩摩禰、旨隷、遮梨弟、シヤ(貝偏に余の中が示)ミヤ(口偏に羊) ---- 」(法華経 p639)云々というのですが、意味はさっぱりわかりません(笑い)。

名誉会長: 「陀羅尼」については、後で説明することにして、薬王は、こう言うのだね。「もしも、法華経を弘める法師 ---- 広宣流布をする人です ---- を迫害し、そしる者がいるならば、これはすなわち諸仏を迫害し、そしる人間である!」と。

須田: それを聞いて、釈尊が讃めます。
 「素晴らしい、素晴らしい。薬王よ、あなたが弘教者を守護することによって、実に多くの人々が、大変な利益を得るだろう!」

遠藤: つまり、“広布の実践者”を守ることによって、“人類に大利益を与えよう”ということですね。

名誉会長: そうです。“広布の実践者”とは、今で言えば、創価学会です。また創価学会の同志です。学会と学会員を守るということが、人類を守ることになる。人類に大利益を与える「妙法」を弘めているのだから、「人類の宝」の存在です。独善で言うのではない。傲慢で言うのではない。法華経が、そう説いているのです。
 ありがたいことだ。じつに、ありがたい。この尊い自分の使命を「自覚」できるか否か。それで人生は百八十度、変わる。



[20] 法華経の智慧389

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 6日(日)06時59分52秒 4.21.149.210.rev.iijmobile.jp  通報   返信・引用

慧389  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 6日(金)10時13分37秒   通報
■ 二菩薩・二天・鬼女の誓い

斉藤: 陀羅尼品では、こういう誓いが五回、繰り返されます。
 薬王菩薩の次は、勇施菩薩が言います。「仏さま! 私もまた、法華経を受持する人を護るために、陀羅尼を説きます。この陀羅尼によって、悪い夜叉や羅刹などが、受持者の弱点を探して攻撃しようとしても、できないようにいたします」。
 次に、毘沙門天が、そして持国天が同じく陀羅尼を唱えて、行者の守護を誓いいます。
名誉会長: 二菩薩の後、四天王のうちの二人が誓ったわけだ。

須田: はい。続いて、十羅刹女(十人の鬼女)と鬼子母神はじめ、多くの鬼神が誓いを立てます。「仏さま!私たちもまた、法華経の行者を護って、その患いを取り除きたいのです。もしも、行者の弱点を探して攻撃しようとする奴らがいても、そうはさせません!」。

名誉会長: すごい気迫だね。女性は強い(笑い)。

遠藤: 彼女たちは「陀羅尼」を唱えたあと、堂々と宣告します。「悪党どもよ! お前たちが、私の頭に乗って、踏みにじろうとも、それはまだいい。しかし、行者を悩ませることは許さない。夢の中でさえ、行者を悩ませはしない!」と。
 「もしも、妙法の説法者を悩ませ、乱すならば、その者の頭は阿梨樹の枝のごとく、七つに分かれるでしょう!父母を殺す罪のごとき大罪を得ることになるでしよう!」と。
────────────────────────────────────────
陀羅尼品から
即ち仏の前に於いて、偈を説いて言さく、
 若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば
 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん
 父母を殺しぬる罪の如く 亦油を圧す殃
 斗秤をもって人を欺証し 調達が破僧罪の如く
 此の法師を犯さん者は 当に是の如き殃を獲べし(法華経 p645)

 そこで仏前において、(十羅刹女たちは)偈を説いてこう述べた。
 「もし、我々の陀羅尼呪に順わないで、法華経を説き弘める人を苦しみ悩ませるならば、その者の頭は破(わ)れて七つにかかれ・阿梨樹の枝のようになるだろう。
 父母を殺した罪のように、また胡麻油をしぼるとき異物を混ぜてしぽる罪科、秤をごまかして人を騙す罪科、提婆達多の破和合僧の罪のように、この法華経を説き弘める人を悩ませ者は、必す同様の悪しき罪科をうけるであろう」と。
────────────────────────────────────────
名誉会長: 有名な「説法者を悩乱せば 頭破れても七分に作る」(法華経 p645)の文だ。御本尊の向かって右の肩には、厳然と「若悩乱者頭破七分(若し悩乱する者は頭七分に破る)」と、おしたためです。

斉藤: 罰論ですね。

名誉会長: 罰論です。罰と言っても、だれかが当てるというのではなく、自分が「法にに逆らった」結果です。「法に則って」生きれば、功徳があるのと裏腹です。
 御本尊の向かって左の肩には「有供養者福過十号(供養すること有らん者福十号に過ぐ)」と、おしたためです。<法華経を供養する功徳は、十号を具えた仏を供養する福に勝る>

斉藤: それにしても、十羅刹女たちの勢いは、すごい。

須田: じつは、まだ続きます(笑い)。
 「私たちもまた、説法者を護って、安穏にし、もろもろの患いを打ち払い、もろもろの毒薬も消させてみせます!」
 釈尊が喜んで、鬼女たちを称えます。「素晴らしい、素晴らしい。法華経の名前を受持する者を護っただけでも、その福は量りしれない。いわんや、それ以上の修行をし、供養している者を護る功徳となれば!まさに、あなたたちは、このような行者を護りなさい!」
 こういうやりとりを聞いていた、その場の聴衆は、六万八千人が悟りを得たと説かれています。ここで陀羅尼品は終わります。

名誉会長: 「広布の実践者を、何が何でも護り抜くんだ」という情熱が、ほとばしっている。
 ひとつの解釈として、薬王菩薩は「健康」の面から護るとも考えられる。行者を病気から守っていく。もちろん薬王は、迹化の菩薩の代表だから、あらゆる迹化の菩薩が、地涌の菩薩を護りに護るということも示しているでしよう。
 また勇施菩薩は、「一切衆生に仏法という宝を勇んで布施する」菩薩です。これは「法の布施」だが、「財の布施」も含めて、行者を支えようという意義をくみ取れるかもしれない。
 また「毘沙門天」と「持国天」は、仏法を守護する四天王の代表です。天界の王であるから、「力」がある。
 今で言えば、ありとあらゆる分野の「指導者」とも考えられる。そういうリーダーが、こぞって広宣流布の実践者を守る。

遠藤: 今、海外の指導者は、次々に学会を賛嘆しています。



[19] 法華経の智慧390

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 5日(土)08時40分7秒 149.21.149.210.rev.iijmobile.jp  通報   返信・引用

投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 6日(金)12時55分18秒   通報
■ 悪鬼も善鬼に変えられる

名誉会長: 次の「鬼女たちが護る」とは、悪鬼をも善鬼にしていけるという証拠です。

須田: もともと鬼子母神などは悪鬼ですから ---- 。
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「聖愚問答抄」から
 法華経第八・陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せん福量るべからず」此の文の意は仏鬼子母神十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓い給うを讃むるとして汝等法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ、其の功徳は三世了達の仏の智慧も尚及びがたしと説かれたり、仏智の及ばぬ事何かあるべきなれども法華の題名受持の功徳ばかりは是を知らずと宣べたり(御書 p498)

 法事経第八巻の陀羅尼品には「あなたたちが、ただ法華の名をよく受持している人を守る福徳は量りしれないであろう」とある。
 この文の意味は、鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を守ろうと誓ったのを釈迦仏が讃めて、“あなたたちは法華経の首題(題目)を持つ人を守ると誓ったが、その功徳は三世を知り尽くした仏の智慧ですらなお及びかたい”と説かれているのである。
“仏の智慧が及ばないことがあるはずがないのだが、法華経の題目を受持する功徳の大きさだけは分からない”と仏自身が宣言されているのである。
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名誉会長: 大聖人は御義口伝で「流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり」(御書 p778)と仰せだ。
 たとえば「鬼子母神」については、大聖人は“上から読めば悪鬼、下から読めば善鬼”という読み方を教えてくださっている。

遠藤: 「鬼」「子」「母」を、上から読みますと、まず「鬼とは父なり」(同)。これは鬼子母神の夫の鬼神・般闍迦(パーンチカ神)のことです。宝を入れる袋を持っていると言われ、日本では大黒天になっています。

須田: 次に「子とは十羅刹女なり」(同)。鬼子母神には一万人の子どもがあったとされますが、その中に十羅刹女もいると大聖人は捉えられています。

遠藤: 鬼というと、男性は、すごい顔ですが、女性の鬼は美人だそうです(笑い)。

斉藤: 日本でも、ふくよかな十羅刹女の像が作られたりしています。古くから信仰されていたようです。

名誉会長: 美しくて、法華経の行者を護る女性たち ---- と言えば、学会の婦人部、女子部の皆さんということになるが、鬼などというと叱られてしまうね(笑い)。

斉藤: でも「鬼神となっても、学会を護る」という執念は、まさに男性顔負けです。



[18] 法華経の智慧391

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 5日(土)08時37分50秒 KD106143219017.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 6日(金)20時01分35秒   通報
名誉会長: 女性がそこまで頑張らなくてもいいように、男性が頑張らなくてはいけない。女性に甘える男性なんか最低です。

遠藤: そして「母とは伽利帝母なり」(御書 p778)。これは鬼子母神のインドでの名前です。「ハーリーティー女神」と言って、もともとはガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)で信仰されていたようです。

須田: 仏典では、「人の子を取って食う」鬼神として描かれています。釈尊がそれを見て、鬼子母神の末っ子を隠します。
鬼子母神は嘆き悲しみ、釈尊は「たくさんの子どもの一人がいなくなっても、それほど悲しい。それならば、子どもを、お前に取って食われた親たちの悲しみは、どれほどかわかるか!」と叱ります。こうやって改心させたという有名な話です。

名誉会長: わが子だけを溺愛し、人の子のことはどうでもいい ?- 鬼子母神は、母性の悪い面を象徴している。
わが子への愛を、他の人への人間愛にまで広げれば、悲母観音であるし、菩薩です。  大聖人は「悪鬼」の「鬼子母神」を、逆から読んで、こう仰せだ。「神とは九識なり母とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり」(御書 p778)やさしく言えば、「九識」とは「仏界」です。
生命の奥底にある仏界を湧現していけば、八識(阿頼耶識)が変わり、七識(末那識)が変わり、六識が変わり、五識(眼・耳・鼻・舌・身の五識)が変わる。全部、清浄となり、善の働きになる。
妙法によって、善鬼になるのです。こちらが「断じて戦う!」という信心をもっていれば、悪鬼も善鬼になる。障魔も家来にできる。
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「御義口伝」から
第四受持法華名者福不可量の事
御義口伝に云く法華の名と云うは題目なり、者と云うは日本国の一切衆生の中には法華経の行者なり、又云く者の字は男女の中には別して女人を讃めたり女人を指して者と云うなり、十羅刹女は別して女人を本とせり例せば竜女が度脱苦衆生とて女人を苦の衆生と云うが如し薬王品の是経典者の者と同じ事なり云云。(御義口伝 p778)

第四「法華の名を受持する者を援護する福徳は量りがたい」について
御義口伝には、こう仰せである。
「この文で『法華の名』というのは、題目のことである。『者』というのは、日本国の一切衆生の中では法華経の行者のことである」
またこう仰せである。「『者』の字は、男女の中では、とりわけ女性を讃められている。女性を指して『者』というのである。十羅刹女の守護の誓いは特に女性を中心としている。例えば、竜女が『苦しむ衆生を救う』と誓っている場合に、女性を指して『苦しむ衆生』といっているようなものである。薬王品の『この経典を受持する者』の『者』が特に女性を指しているのと同じである」と。
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斉藤: 釈尊のおかげで、鬼子母神たちも善鬼になったわけですね。

名誉会長: そして、この善鬼たちが護る相手もまた、特に女性なのです。女性の身で広宣流布に励む人を譲るのです。
大聖人は「別して女人を讃めたり」「別して女人を本とせり」(御書 p778)と断言しておられる。
総じては男女両方を護るのだが、別しては女性を護るのです。

遠藤: そう言えば、大聖人が「必ず十羅刹女が護りますよ」と励まされた相手は、女性が多いように思います。「経王殿(四条金吾の娘)」「乙御前」「日女御前」「妙密上人と婦人」などです。

名誉会長: 女性を護ってもらいたい。
私は、いつも「十万の諸仏よ、諸天よ、学会の婦人部、女子部を、護りに護りたまえ。無事故で、健康で、福徳に満ち満ちて、幸せでありますよう、力を尽くしたまえ」と祈っている。いな叫んででいる。 吼えるがごとき思いで、訴えています。全幹部が、同じ心であっていただきたい。



[17] 法華経の智慧392

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 5日(土)08時35分35秒 KD106143219017.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 7日(土)09時21分43秒   通報
■ 仏法は「善と悪との大闘争」

名誉会長: こうして「陀羅尼品」では、二聖(薬王・勇施の二菩薩)・二天(毘沙門天・持国天)と鬼神が、守護を誓う。彼らは代表です。全宇宙の諸天・諸菩薩が同じ誓いを立てている。
いわば「法華経の行者」守護連盟です。それは、なぜか。なぜ必要なのか。それは広宣流布が「仏と魔との大闘争」だからです。
この娑婆世界は「第六天の魔王」の所領です。その“悪王”に対して、改革を求めて立ち上がった革命家が“仏”であり、“法華経の行者”です。当然、悪の大軍が弾圧しにやってくる。そのままにしておいては、永遠に夜明けはない。そこで、悪の連合軍にに対して、善の連合軍で守りますというのが、陀羅尼品なのです。
大聖人は仰せだ。「汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん」(御書 p1259)“汝らは人を味方にしている。我は天を味方にしている”と。
次元は違うが、私も、「天を相手に」生きているつもりです。
また大聖人は「諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん」(御書 p843)とも言われている。

斉藤: すごい御境涯です。“今は魔王も、こりたことだろう” ?- 。
たしかに、どんなに日本一国の権力をあげて、大聖人を亡きものにしようとしても、できなかった。不思議なことです。考えられないことです。大聖人は“天をかたうどとして”一人、決然と戦われたのですね。

名誉会長:  戸田先生が晩年、「創価学会は、よくぞ、ここまで来られた.諸天の加護なくしては考えられないことだ」と言われていた。
死力を尽くして広宣流布をした人間以外、この言葉はわからないでしょう。あの大阪事件にしても、全部・学会をつぶす作戦だったのです。
<昭和32年(1957年)、参議院の大阪地方区の補欠選挙において、買収と戸別訪問の教唆(そそのかし)というでっちあげの罪で、若き名誉会長(当時・参謀室長)が七月三日に入獄。奇しくも、その十二年前、日本の国家主義権力と戦った戸田第二代会長が出獄した日であった。>
学会があまりにも伸びたので、抑えるために、はじめから筋書きができていた。標的は私であり、戸田先生です。何でもいいから私をつかまえ、次は学会本部を手入れして、戸田先生に手出しをしようとしていた。
戸田先生は年配です。体力的に厳しいことは、私が一番わかっていた。もし、万が一、戸田先生が牢に入れられるようなことがあったら、命にかかわったでしょう。
先生は「大作を返せ! わしが棍棒をもって行く」「あと十五年、わしは牢に入るつもりだ」と言われていたが ?- 。
絶対に、戸田先生に手出しをさせてはならないし、広宣流布の牙城に権力を土足で踏みこませるようなことは、断じて食い止めたかった。
私は、自分が矢面に立って、牢へ入りたいと祈った。戸田先生を私が盾となって護りたいと祈った。そうやって、牢へ入ったのです。

斉藤:  ?- 「身がわり」ですね。

遠藤: 厳粛です。

名誉会長: 私は、創価学会の屋根になろうという決心できた。
屋根だから、炎熱も受ける。雨も嵐も受ける。雪も積もる。しかし、それで皆が守られるなら、それでいい。
しかし、そのために、幹部を甘やかしてしまったとしたら、これほど残念なことはない。私は、水の中の杭のようなものだ。
杭が厳然としていれば、民衆の船は杭にしっかりとつかまっていられる。嵐の日にも、安心だ。
しかし、そうやって、皆がほっとして、楽しく団欒している間にも、杭は、見えない、冷たい水の中で、一人、頑張っているのです。

斉藤:  ?- これまで陀羅尼品を漠然と読んできたような気がします。
「我が頭の上に上るとも、法師(広布の実践者)を悩すこと莫れ」(法華経 p645)という十羅刹女たちの誓いも、自分が矢面に立って、自分は踏まれてもいいから、行者を護るという誓いでした。
これを単に、諸天の誓いとしてとらえていました。そうではなく、その決意で自分自身が戦っていきなさいと読むべきだと思います。

須田: 「人」を守れ、それが「法」を守ることになる ?- と。



[16] 法華経の智慧393

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 5日(土)08時31分23秒 KD106143219017.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

393  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 7日(土)11時52分49秒   通報
■ 御聖訓「天下第一の法華経の奉公」

名誉会長: 「法自ら弘まらず」(御書 p856)です。弘法の「人」がなければ、仏法は死滅してしまう。

遠藤: 大聖人が「天下第一の法華経の奉公なり」(御書 p324)と称えられたのも、大聖人をお守りした兄弟子たちに対してでした。

名誉会長: その通りだ。「天下第一の法華経の奉公」 ---- つまり「これ以上の『法華経への貢献』はない」ということです。
 それは、高僧を集めて、絢爛たる儀式をしたことでもなかった。多くの人々の前で、立派な説法をしたのでもなかった。当時の“法華経の総本山”ともいうべき比叡山に布施をしたことでもなかった。
 大聖人が立宗の宣言をなされた時、権力者(地頭の東条景信)の襲撃から、大聖人をかばい、義浄房・浄顕房の二人が、ひそかに脱出の手伝いをした。このことを大聖人は「天下第一の奉公なり」と称えて、「必ず成仏しますよ」とまで言われたのです。
 報恩抄の中でですから、事件の二十年以上あとです。大聖人は、その時もなお、二人への感謝を忘れず、ここまで温かく励ましておられる。ありがたい御本仏です。大聖人は他にも、自分を守護してくれた人に対して、「浄行菩薩が生まれ変わってこられたのでしょうか」「教主釈尊があなたの身に入りかわって、助けてくださったのでしょうか」等と、つねに感謝し、称えておられる。自分を守って当然だというような言い方はされていません。
 「自分中心」であれば、人が支えてくれて当然という傲慢さが出てくる。しかし「法中心」であるゆえに、「法のために、ありがたいことだ」と感謝の心がわく。感謝と感謝で結ばれるのが、広宣流布の世界なのです。私も、一日に、何十回、いな何百回、「ありがとう」「ありがとう」と言っているか、わからない。

斉藤: そういう美しい気持ちをなくした人間が、学会にいられなくなってしまうんだと思います。

須田: しかし、自分が「清らかな世界から脱落した」とは認めたくない。そこで自分を正当化するために、学会のほうが悪いように言う。これが退転者・反逆者の心理でしょうか。

遠藤: しかし、こうして大聖人の御言葉を拝しますと、「諸天善神」と言っても、具体的な「人間」として現れていることが、よくわかります。諸天善神というと、何となく、目にみえない神秘的な力が働くようなイメージがありますが。

須田: 風の力とか、自然現象のようなイメージもありますね。

遠藤: それも当然あるでしょうが、何より、身近な人間こそが、諸天善神の働きをしてくれていると思います。


■ 広布の同志こそ最高に尊貴

名誉会長: その通りです。なかんずく、学会の同志こそが、最も大切にし、感謝すべき諸天善神の働きをしてくださっていると言ってよい。
 大聖人も門下に対して、そういう意味のことを言われています。
 たとえば「法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまぎまに供養してたすくべしと云う経文なり」(御書 p1445)、「十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか」(御書 p1414)。
 <(長年の出家の弟子たちなども逃げてしまい、訪ねてこないのに、あなたが身延まで供養を届けられるのは)十羅刹女が人の身に入りかわって(大聖人に)思いを寄せられるのだろうか>
 ほかにも、たくさんあります。今で言えば、広宣流布を支え、広宣流布の団体・創価学会を支えてくださっている方々が、諸天善神です。諸菩薩です。如来の使いです。それを忘れて、何か同志以外の人だけを大切にし、同志を軽んじるような風潮が起こったならば、本末転倒です。
 学会員が大切なのです。学会員が最高に尊貴なのです。世間の地位が何ですか。財産が何ですか。
 法華経に照らせば、広宣流布をしている学会員以上に尊貴な方々はないのです。
 何度でも私は、このことを言っておきます。私の遺言と思ってもらいたい。学会の同志を真心から大切にして、仕えた分だけ、広宣流布は進むのです。その熱い心の「かがり火」を消してしまったなら、もはや官僚主義であり、広宣流布の炎は消えてしまう。

須田: 内部にも、増上慢の悪人はいると思いますが ---- 。

名誉会長: だからこそ、真の同志と真の同志の連帯を、がっちりとつくって、創価学会を守っていただきたい。「戸田の命よりも大切な学会の組織」と言われた創価学会です。 ともあれ、御本尊を大事にする人は、御本尊から大事にされる。三世十万の諸仏・諸天から大事にされる。鏡に、自分の姿勢そのままが映るようなものです。
 同じ意味で、妙法を広宣流布している人を大切に守れば、その人は、今度は御本尊から大切にされ、守られる。それが陀羅尼品で、釈尊が二聖・二天・善鬼に対し「善い哉善い哉(素晴らしい、素晴らしい)」(法華経 p646)と称えた心です。
 学会を大事にする人は、御本尊から大事にされるのです。この一点さえ覚えておけば、人生は盤石です。



[15] 法華経の智慧394

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 5日(土)08時29分25秒 KD106143219017.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

慧394  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 7日(土)18時56分10秒   通報
■ 「師弟一体」の一書

須田: 戸田先生が牧口先生をお守りしたのも、それはすごい気迫であったとうかがっています。あの『創価教育学体系』を発刊された時も、原稿の整理から出版まで、戸田先生が一人で奔走されたんですね。

名誉会長: そうです。だから、どの巻の奥付にも「発行兼印刷者」として、戸田先生のお名前が残っている。
 もともと「創価」という名前も、牧口先生と戸田先生との語らいのなかから生まれたものです。名前を付けられたのは戸田先生です。これは有名な話だ。

須田: はい。牧口先生と戸田先生が、二人で火鉢を かこんで、夜の十二時まで語りあった「ある日」のことです。昭和4年(1929年)の頃のようです。場所は戸田先生のお宅です。
 牧口先生は戸田先生に言います。「戸田君、小学校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。わたくしは白金小学校長を退職させられるのを、自分のために困るのではない。小学校長としての現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ」。
 戸田先生は、「よし、先生、やりましょう」と。
 「戸田君、金がかかるよ」
 「わたくしには、たくさんはありませんけれども、一万九千円のものは、ぜんぶ投げ出しましょう」
 そして、戸田先生は牧口先生に尋ねます。「先生の教育学は、何が目的ですか」。
 「価値を創造することだ」
 「では先生、創価教育、と決めましょう」
 名前は、一分で決まったといいます。

名誉会長: これが「創価学会」の「創価」です。
 今、混迷する世界で、人類の希望となっている名称です。価値を創造する。美と利と善を創り出す。深い深い哲学と人格のある名前です。
 お二人の人格が反映した名前です。
 ただ、名称が決まったはいいが、それからが長い道のりだった。実際に資金を用意するというのは大変なことだ。

須田: この時に、戸田先生が考え出したのが模擬試験の開催でした。その頃は、中学進学で「試験地獄」という言葉が一般にも言われるようになった頃です。
 自分の実力と試験の水準が分からないことが、受験の苦しみを更に大きくしていたようです。そうした時に、戸田先生は、「東京府綜合模擬試験」いう名称で、公開の模擬試験を開催したのです。
 そして、採点した答案を返し、受験生に自分の実力と、どこらへんの学校を志望したらいいかという目安を教えたようです。
 最初は五百人ぐらいの規模から一会場で始まりましたが、数年したら、五会場ぐらいで約三千人の生徒が集まるようになったそうです。
 戸田先生は、こうした尽力で『創価教育学体系』の出版費用を作っていかれたのです。
名誉会長: あと、『推理式指導算術』を書いて、ベストセラーにし、その印税を、牧口先生のために使ったのだね。
 さて、名称も決まった。資金もなんとか工面した。それでもまだ本にはならなかった。それは、牧口先生が多忙のため、原稿用紙にまとめる時間がなかったからです。
 牧口先生は、常に思索をメモにし、ホゴ紙の裏に書きとめておられた。そこには深い思想の結晶があるのだが、それをまとめる時間が思うようにとれなかった。それも戸田先生が「牧口先生、わたくしが、やりましょう」と申し上げた。
 ただ、牧口先生は、そこまで戸田先生に迷惑をかけてはと躊躇された。一口にメモの整理というが、大変な作業です。メモだって、ばらばらの状態です。はたして、できるであろうかと ---- 。
 しかし、戸田先生は言いました。
 「先生、戸田が読んでわからないものを出版して、先生はだれのために出版するのです。先生は、世界の大学者に読ませるのですか。もし、戸田が読んでわかるものなら、わたくしが書けます」
 戸田先生は、メモで重複するものはハサミで切って除き、八畳の部屋いっぱいに、一切れ一切れ並べたそうです。そうすると、そのまま一巻の本になる。
 牧口先生の構想も緻密であれば、それを追いかけた戸田先生の執念も大変なものであった。こうして、三巻まで戸田先生が整理し、四巻まで出版したのです。

斉藤: 『創価教育学体系』は成り立ちからして、師弟一体の結晶だったのですね。感動します。

名誉会長: あの豪放磊落な戸田先生が、牧口先生のこと語るときは、本当に厳粛な雰囲気があった。
 戸田先生は亡くなる時まで、牧口先生のことを語っておられた。 師を守る、という厳たる一念にあふれていた。まさに「天下第一の法華経奉公なり」の精神そのものでした。



[14] 法華経の智慧395

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 3日(木)18時47分21秒 KD106143218012.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

慧395  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 8日(日)09時20分17秒   通報
■ 陀羅尼は呪文か?

名誉会長: ところで「陀羅尼品」の「陀羅尼」という意味を、はっきりさせておかなければいけないね。 あまり聞き慣れない言葉だと思っている人も多いでしょう。

遠藤: 先ほど、薬王菩薩が唱えた「陀羅尼呪」を見ました。
「安爾(あに)、曼爾(まに)、摩禰(まね)、摩摩禰(ままね)」(法華経 p639)云々と。これで四句ですが、こういう感じで四十三句、続きます。

須田: まるで「呪文」ですね。

遠藤: 「呪文」なんです(笑い)。

斉藤: 意味も一応、あるんですね。

遠藤: ええ。一応、サンスクリット語や『正法華経』(竺法護訳)などを参考にして訳すと、大体、次のようになり ます。
 「仏の覚りの境地である寂滅・解脱の境地は、一切の衆生に対して平等に苦悩を除く。内なる清浄な常住の平等な相を見すえ、それに基づいて安穏である。それを教団の人々に信受させ安穏にさせる。巧みな言葉は尽きることなく、尽きない幸福を広げて、顧みることなく広大に進むであろう」
 ただし、あくまで、これは要旨だし、さまざまに研究されているようです。

斉藤: 一般的には、「呪文である」「まじないの言葉である」としてすます場合が多いようです。

名誉会長: 鳩摩羅什が、あえて中国語に翻訳しなかったとろに、意味があるでしょう。
須田: もともとの音を、そのまま漢字で羅列しただけですから。

名誉会長: 「陀羅尼」という言葉そのものも、サンスクリツトの「ダーラニー」を、そのまま音写したんだね。

斉藤: はい。漢訳だと「総持」です。「能持」「能遮」という意味があります。天台の説明(法華文句)によれば、仏の言葉を「しっかり持つ」ことで、「悪を遮り、善を起こす」ことができると。
 「ダーラニー」のもともとの言葉は、「記憶し持っている」ということです。「支える」「維持する」という語源からくるようです。

名誉会長: それで、「総持」 ---- 総て持つというわけだね。たしか『正法華経』では、陀羅尼品でなく総持品と訳されていた。

遠藤: はい。「総持」とは、「総て持つ」「教えをすべて心にとどめて持つ」という意味になります。
 法華経には「陀羅尼」という言葉自体は、実はもう十回ぐらいは出ています。
 法華経の序品には、「法華経の会座に集った菩薩たちは、陀羅尼を得ていて、巧みな弁説で人々を不退転の境涯に導ける」と説かれています。この場合の「陀羅尼」は、「仏の教説を記憶し持っている」という意味です.

名誉会長: 古代の文明では、大切な教えは文字に書きとどめないで、暗誦し、心にとどめていく習慣があった。「師が説いた教えを深く心に刻んで忘れない」 ---- 。これが「陀羅尼」の本義でしょう。
 要するに、「憶持不忘」です。師匠の言われた言葉を断じて忘れないことです。
 〈「憶持不忘」は普賢経にある言葉。「憶持して忘れじ」と読む。御書には「此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり」(p1136)とある〉
 これを「聞持陀羅尼」という。それから「旃陀羅尼」というのもあったね。

須田: それは、陀羅尼を「繰り返し唱える」という意味になります。
 「百千万億無量の旃陀羅尼」(分別功徳品、法華経 p512)という、すごい回数の旃陀羅尼が出てきます。

遠藤: 題目も、これくらいあげると、すごいでしょうね(笑い)。



[13] 法華経の智慧396

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 3日(木)18時45分37秒 KD106143218012.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

の智慧396  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 8日(日)12時58分19秒   通報
■ 陀羅尼とは「諸仏の秘密の言葉」

名誉会長: 大聖人は、ずばり「陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり」(御書 p772)と言われている。御義口伝伝です。
「其の故は陀羅尼は・諸仏の密語なり」(同)。仏と仏だけの「秘密の言葉」だと言うことです。「題目の五字・三世の諸仏の秘密の蜜語なり」(同)。「秘密の中の秘密の言葉」だというのです。
 秘密には、傷(欠陥)や悪を隠す「隠密」と、宝を隠す「微密」とがあるが、もちろんこれは「微密」です。一般的に、わかりやすく言えば、「陀羅尼」とは「魂をこめた言葉」の究極と言えるのではないだろうか。
 単に意味を伝えるだけでなく、そこに生命のエネルギーを注ぎこんである言葉です。ゆえに音律が大事になる。

遠藤: 詩のようなものでしょうか。

名誉会長: 詩も、広く言えばそうでしょう。事実日本では古来、「和歌は日本の陀羅尼なり」と言われて、歌道が即仏道と考えられた場合があった。西行なんか、そうでしょう。この「生命のエネルギーを注ぎこみ、結晶させた言葉」は、音律そのものが、ひとつの「力」をもつと考えられた。

須田: 日本では「言霊」の思想がありました。
 <言葉には霊的な力がこもっており、言葉通りの状態を実現する力があるとする思想>

斉藤: 真実の言葉が、災いを払ったり、病気を治したりする力をもっているというのは、古代に広く世界で見られた考え方です。

遠藤: そういう考え方が、この陀羅尼品にもあるのではないでしょうか。「陀羅尼呪」を法華経の行者に贈ることによって、その人を守るというのですから。

名誉会長: そうでしょう。言霊の思想を、そのまま受けとるわけにはいかないし、釈尊は本来、呪文や占いを禁じた。そのうえで、「音韻」「音律」というものが、ある意味で、言葉の意味内容以上に、大きな力をもっている面があることは事実でしょう。
 言葉には命がある。島崎藤村は「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり」と言った。生命の「力」は、何より「声」に現れる。だから、どういう声、どういう言葉を発するかで、心も変わり、体も変わり、命も変わる。
 「声仏事を為す」です。「声悪事を為す」場合もある。良き言葉は、良き心と体をつくる。悪い言葉は、悪い心と体をつくる。

遠藤: 陀羅尼は、最高に命のこもった「真実の言葉」ですね。

名誉会長: 芸術の世界でも、「本物」と「偽物」は、まったく違う。本物には、何とも言えない気迫というか、訴えてくる力があるものです。それは名匠が作品にこめた「生命」の力です。
 一方、「贋作」は、どんなに見事にできていても、そこに込められているのは、これで金もうけをしてやろうという思いです.どうしても、それがにじみ出てしまう。
 言葉も、命をこめ、命を流しこんだ言葉は、名人の芸術のようなものです。

斉藤: 「陀羅尼」も、だから翻訳しなかったのですね。

名誉会長: 南無妙法蓮華経も翻訳しない。それは「仏の言葉」だからです。英語の国へ行って、意味がわからなくても「サンキュー」と言えば、通じる。それに似て、「仏の言葉」だから、三世十方の諸仏に、そのまま通じていきます。
 大聖人は「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし」(御書 p808)と仰せだ。
 「音」です。大事なのは。たとえば「かきくけこ」というと、何か固い感じがする。固体の感じがする。「さしすせそ」というと、風が吹いているような気体のような感じがする。「なにぬねの」というと、ぬるぬるするような、ねばり気を感じる。「まみむめも」というと、しっとりと、うるおっているような感じがする。

斉藤: そう言えば、メニューインさん(今世紀を代表するヴアイオリニスト)が、先生との会談で、題目の音について「本当に口ずさみやすいし、心地よい音律です」と言われていましたね。

名誉会長: 世界一、音にうるさい人が、そう言うんだから(笑い)。

須田: 「南無妙法蓮華経の『NAM』という音に強い印象を受けます」とも言われていました。
 「『M』とは命の源というか、『マザー(MOTHER)』の音、子供が一番、最初に覚える『マー(お母さん)、マー』という音に通じます。この『M』の音が重要な位置を占めている。そのうえ、意味深い『R』の音(蓮=れん)が、中央にある」と。

名誉会長: 「南無妙法蓮華経と“唱える”ことと、歌を“歌う”こととは、深く通じ合うのではないかと思います。『声を出す』ということ自体、人間の体に、良い影響を与えます」とも言われていた。

斉藤: アルゼンチン・フローレス大学のケルテース学長も「題目の効果の科学的実証」に興味をもたれていたそうです。〈99年1月に、名誉会長夫妻への名誉博士号・名誉教授称号贈呈のため来日〉
 何でも、SGI(創価学会インタナショナル)のメンバ-の功徳あふれる姿を見て、関心をもち「仏法のことを知らない、また興味を持っていない人たちに、仏法のすごさ、題目のすごさを、わからせたい」と語っておられたそうです。

遠藤: 本当に、すごい時代になりましたね(笑い)。

須田: 「陀羅尼」について整理しますと(1)仏の教えを「憶持不忘」する力(聞持陀羅尼)(2)生命に刻んだ教えを自分と人のために繰り返すこと(旃陀羅尼)(3)仏の教えを正しく持っている人を守る短い言葉(陀羅尼呪) ---- になるで しょうか。このほかにも、いろいろありますが。

遠藤: 陀羅尼品では(3)の使い方ですね。その根源、実体は妙法です。



[12] 法華経の智慧397

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 3日(木)10時06分35秒 KD106143218012.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

の智慧397  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 8日(日)18時55分32秒   通報
■ 万物は歌うあなたの応援歌を!

名誉会長: 妙法は、宇宙の根源の音律でもある。そもそも宇宙全体が、巨大なオーケストラです。合唱団です。
 ユゴーは歌った。
 「万物が話をする、吹きすぎる風も」「草の芽も、花も、種も、土も、水もが」「万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。ある考えがこめられているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには」
 「万物はうめく、おまえのように。万物はうたう、私のように。
 万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか?
 なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!
 万物は魂に満ちているのだ」
 「星から虫けらにいたるまで、広大無辺な宇宙は、おたがいの言葉に耳を傾けている」 ---- 。<辻昶・稲垣直樹訳「闇の口の語ったこと」『ユゴー詩集』所収、潮出版社>
 詩人の直観は、実は近年の科学でも裏づけられている。
 くわしくは、これまで論じたこともあるので略すが、従来の「もの言わぬ物質の集まり」と見るような宇宙観ではなく、ユゴーが言ったように「天空の竪琴」が鳴り響き、「万物が声を発する」にぎやかな宇宙観へと変化してきたのです。
 素粒子・原子・分子などの「ミクロ(極小)の世界」から、惑星・銀河系などの「マクロ(極大)の世界」まで、音楽的とも言うべき法則にのっとって、振動し、声を発しているのです。
 〈第一回SGI世界青年部幹部会(1991年7月10日)でのスピーチ(『今日より明日へ』第96集所収)などに論じられている>

斉藤: 大聖人は「所詮妙法陀羅尼の真言なれば十界の語言・音声皆陀羅尼なり(中略)陀羅尼とは南無妙法蓮華経の用なり」(御書 p802)と言われています。
 意味は、「所詮、妙法の陀羅尼の真言であるから、仏界から地獄界まで十法界のありとあらゆる語言・音声は、すべて(法華経の行者を守る)陀羅尼である(中略)陀羅尼とは南無妙法蓮華経の一分の働きである(実体は妙法である)」ということになるでしょうか。

名誉会長: 万物が音声を発している。それはすべて、地獄界から仏界の音声まで、ことごとく妙法の行者への「応援歌」であり、必ず守護しますと全宇宙が誓っているのです。

須田: すごいことですね。

遠藤: 「妙法陀羅尼の真言」と言われていますが、「真言陀羅尼」という言葉もあります。もともと発生の違う「真言」と「陀羅尼」が、だんだん習合して、ひとつになったんてすね。

名誉会長: そのうえで、真言は「短い呪文」、陀羅尼は「長い呪文」のような立て分けがあったようだね。

斉藤: 真言 ---- 仏の真実の言葉。それはじつは「南無妙法蓮華経」しかありません。また陀羅尼品で、二聖・二天・十羅刹女が唱える五つの陀羅尼(五番神呪)も、じつは「妙法の五字」のことであり、さらに「五番神呪とは我等が一身なり」(御書 p778)とも仰せです。


■ 一人立つ「信心」に諸天の守りが

名誉会長: 大宇宙も「妙法の五字」の当体です。我が身、小字宙も「妙法の五字」の当体です。
 陀羅尼品で説く「守護の陀羅尼」も、その実体は「妙法の五字」です。ゆえに、全宇宙が妙法の行者を守りに守るのであり、そのためには「我等が一身」の「妙法五字」が生き生きと躍動しているか否かで決まる。
 「信心」が燃えていれば、全宇宙がその人を守る。「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(妙楽の言葉)。
 大聖人が繰り返し、引いておられる一句です。「信心の強さによって、諸天が守る強さが決まる」と。
 信心している人間が「大将軍」になれば、その家来である諸天善神は、元気いっぱいに働く。将軍が ---- 信心が弱ければ、家来は働きません。「つるぎなんども・すすまぎる人のためには用る事なし」(御書 p1124)です。
 諸天善神は、広宣流布に「一番戦っている人」を、「一番大切に」守るのです。

遠藤: 諸天に頼ったり、すがったりするのではなく、自分が諸天を動かしていくということですね。

名誉会長: そうでなければ、弱々しい惰弱な人間をつくってしまう。それでは何のための信仰か。「強き信心」とは、一人立つ精神です。
 大聖人が「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書 p232)と言われた。諸天の加護などいらない、命をも捨てようという、その信心にこそ、厳然と善天の加護があるのです。
 広宣流布のためなら、何もいらない。その信心に立てば、一切が必ず開けます。仏法は勝負です。勝たねば無意味です。


■ 豁然と「仏の力」がわく

名誉会長: ともあれ、「広宣流布のために」学会を守るのか、「自分のために」学会を利用するのか。根本的な違いがある。本当に、広布のために立ち上がれば、どれほどの力が出るか、どれほどの智慧と慈愛と生命力が出るか、どれほど諸天が動きに動くか。
 私が入信して、ちょうど三年目だった。戸田先生の会社が業務停止になってしまった。<昭和25年(1950年)8月22日。入信は昭和22年(1947年)8月24日>
 刑事事件になることだけは免れたものの、当時の金で数千万の借金が残った。今で言えば数十億でしょう。しかし私は、働いて、働いて、全部、返しました。
 戸田先生のお酒代もなかった。私は自分のオーバーも質に入れて、先生にお酒を買ってさしあげた。半年間、一銭の給料も出なかった。靴もペチャンコ。ちゃんとした服だってない。体もひどかった。

 しかし、先生をお守りするためなら、たとえ餓鬼道に苦しもうと、地獄界に苦しもうと、かまわない。それで何の悔いもないと決意していた。戸田先生を守ることが、広宣流布を守ることだったからです。
 先輩のなかには、卑怯にも、戸田先生が一番大変な時に逃げてしまった人間もいた。いざという時に、「自分中心」か「師匠中心」か、わかってしまう。なかんずく増上慢の人間は、自分を中心に師匠を見ている。高い山を下から見ているようなもので、頂上のことがわかるわけがない。それをわかったつもりでいる。
 大聖人は「日蓮が弟子等の中に・なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候」(御書 p1546)と仰せだ。
 中途半端に、仏法を知ったかぶりしているような増上慢が一番、危ないのです。そういう慢心があれば、いざという時に自分だけ嵐を避けて、第三者のような傍観者的態度になったり、いい子になろうとする。自分が傷つかないように、要領よく振るまう。そうやって、自分が苦労しないから、師匠や学会の恩もわからない。
 本当に謙虚な気持ちで、「広宣流布のために、わが身を捧げます」という信心があれば、豁然と、力がわいてくるのです。私は、広布のすべての戦いでも、いつも「日本一」の結果を出してきた。「世界」に妙法を弘めました。不可能を可能にしてきました。ならば、私の後に続く青年が、何で、力が出ないわけがあろうか。
 当時も、私より先輩の幹部は、たくさんいた。私は、ずっと後輩です。最高幹部でもなかった。しかし立場ではない。格好ではない。役職と信心は別です。役職が尊いのではない。信心が尊いのです。青年部の幹部会で「全員が会長の自覚で」と語ったのは、その意味です。
 一人立って、「私が必ず、広宣流布をいたします」と誓願の題目をあげるのです。御本尊に「阿修羅のごとく戦わせてください」と祈るのです。それで、力が出ないわけがない。勝利できないわけがない。
 たとえ今、どんな苦境にあろうとも、「広宣流布のために」本気で立ち上がった人を、諸天が守らないわけがない。その信心の大確信の「炎」を教えているのが「陀羅尼品」なのです。



[11] 法華経の智慧398

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 3日(木)10時04分44秒 KD106143218012.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

慧398  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 9日(月)06時42分21秒   通報 編集済
盤石な「家庭革命」の勝利を
■ 「実証」に勝る雄弁なし

名誉会長: この間(99年2月)、沖縄にアジアの代表の方々が来られた。そのなかのあるご一家に関して、私は言いました。
 「お嬢さんは高校三年生 ---- 将来、恋愛したり、お嫁に行くとき、一番、寂しがるのは、お父さんです。お父さんは娘が一番かわいいものだ。
お母さんは『年をとれば、結婚してもしかたない』と思っている。でも、お父さんは、ふとんの中で熱い涙を流している(笑い)」
 「法華経には竜女の成仏が説かれる。『竜女』の『竜』は父、『女』は娘。関係が深いのです。だから、お嬢さんは、恋愛しても、お嫁に行っても、『私は、お父さんが一番好き!』と言ってあげれば、一番喜ぶし、一番の親孝行なんです。最後まで『パパ、大好き!』と。それが一番、一家が幸せになります」

斉藤: たしかに、簡単なようで、根本的な人間学だと思います。

名誉会長: 日蓮大聖人は「物に随って物を随える」(御書 p1088)という智慧を教えられた。仏法心理学であり、人間学です。当時の社会状況を踏まえて、女性に対しての御指導になっているが、男女ともに必要な智慧でしょう。夫婦でも、親子でも同じです。

遠藤: 未入信のお父さんに対しても同じですね。

名誉会長: 同じです。いや、なおさら、お父さんを大事にしてあげることです。「お父さん、お父さん」と慕って、「お父さん、体を大事にしてね」「お父さん、長生きしてくださいね」と真心から大切にしてあげてほしい。
 良き子ども、良き妻、良き夫になるのが信心の実証です。それが、信心したために、反対になったのでは、何のための信仰かわからない。
 信仰のことで争っては愚かです。
 また、信仰のことで未入信家族が反対する場合も、実は信仰そのものよりも、信仰している家族の振る舞いについての不満の場合が多いのです。
 夫婦間の問題を、信心にかこつけていることも多い。もちろん根本的には、自分自身の宿業の問題がある。三障四魔の場合もある。ゆえに大聖人は「此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ」(御書 p1088) ---- この法門のためには、たとえ夫に殺されたとしても後悔してはならない ---- と教えられている。
 「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書 p232)です。どんなことがあっても、強盛な信心を貫いていく。それが「幸福」の根本です。
 自分の信心を深める。強くする。これが一切の根本です。それが一家一族全体を、幸福の軌道に引っ張っていくのです。そして、強盛な信心というのは、勇ましい格好のことではない。相手の立場を思いやれる境涯のことです。ちょっとした配慮のなかに、きらりと光るものだ。


■ 「子を、妻をかわいがりなさい」 ---- 戸田先生

名誉会長: 戸田先生の質問会でも、「家族に信心を反対されている」という悩みが多かった。先生は、子どもが信心に反対の人には、「本当に真剣に、子どもをかわいがっておあげなさい」と教えておられた。
 「親が子どもを献身的にかわいがって、それで、その親に、はむかうはずがありません。親の慈悲には勝てません。子どもを愛する情熱にとぼしいから、家庭にそういう争議が起こってくるのです。子どもが悪いのではない。親が悪いのです。それを御本尊が悪いように、なんくせをつけると、災難は大きいのです」と。
  また妻が信心に反対する人にも、「主人としての務めをきちんとしなさい。かせぎが足りないのです。女房をかわいがってやり、たまには、着物の一枚でも買ってやれない主人では困ります」と。
 「まずあなたから解決しなさい。問題は女房にあるのではない。あなたにあるのです。まず自分自身が変わることです。立派になることです。あなたは反対されることで、女房の家来になっているのです。自由奔放になりなさい。それぐらいの境地を開きなさい」
 「女房に文句を言ううちは、まだまだ信心ができていません。女房を仏さまみたいに、ありがたいと、このようになると、女房が文句言うわけがありません」
 「大体、女房に不足を言う理由がないのです。みんな、女房に月給なんか払ったことないでしょう(笑い)。
 着物なども買ってやったことないではないですか。だから、あんまり、ぐずぐず言わず、女房を大事にしなさい。それが信心の始まりです。自分がろくなこともやらないで、女房が信仰しないとか、女房を責めてばかりいるのは、私はきらいです」。大体、こんなふうに、指導しておられた。

遠藤: 明快ですね。

須田: 創価学会の指導の在り方は、一貫していますね。

斉藤: 「妙荘厳王品」を勉強する前に、結論が出てしまったみたいですが(笑い)。

名誉会長: いやいや、きちんと裏づけをもっていることが大事です。
 本当に立派な「一家和楽の信心」ができるためにも、しっかり学んでおこう。また、この品には、さまざまに大切なことが、ちりばめられている。

遠藤: 「妙荘厳王本事品(第二十七章)」。本事とは由来のことですから、妙荘厳王という王様がどういう人であったか、どんな物語、体験があったか、それを説いています。
名誉会長: 内容は有名だね。

須田: はい。王様だけが「未入信家族」で、夫人と二人の子どもは仏法を信仰していました。三人が、どうやって王を入信させたか ---- その物語です。



[10] 法華経の智慧399

投稿者: noa 投稿日:2015年12月 3日(木)10時03分13秒 KD106143218012.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

智慧399  投稿者:まなこ
投稿日:2015年11月 9日(月)12時39分23秒   通報
■ 旧い「しきたり」と「進歩」の相克

遠藤: はるか昔、妙荘厳王という王がいました。后の名前は浄徳夫人。二人の王子は浄蔵と浄眼。三人とも「浄」の字がついています。
 三人は、雲雷音宿王華智如来という仏が説いた正法を信仰しました。しかし、家族のなかで、父の王だけが、バラモンの教えに執着する「邪見の人」でした。

斉藤: バラモン教というのは、その当時、すでに社会の体制となっていた「古い教え」と考えられます。
 これに対し、仏法は、仏が出現して説いたばかりの「新しい教え」です。

名誉会長: 父親というものは、保守的なものです(笑い)。
 青年には進取の息吹がある。「正しいものは正しい」と、素直に真理を求めていく。しかし、おやじのほうは、「正しかろうが間違っていようが、これが昔からのしきたりだ!」となりやすい(笑い)。新旧の世代の問題でもある。

須田: 「子どもや女房の言うことなんか、聞いてたまるか」と。“沽券にかかわる”と、意地を張ってしまう。

遠藤: 案外、気がちっちゃいものです。自分も男だから、よくわかります(笑い)。

名誉会長: 学会でも、ほとんどが、まず「母と子」が信心して、父は一番後から(笑い) ---- 法華経と同じだ。不思議です。

斉藤: 仏教が広まったころのインド社会では、基本はバラモン教的な「家父長制」でした。父親が家族全員に対して支配権をもっていたわけです。そういうなかで、新しい仏法の教えに、青年や婦人が、どんどん引きつけられていった。
 多くの家庭で“家庭争議”がもち上がったものと思われます。実際、それをうかがわせる仏典も残っています。
 この妙荘厳王品にも、そういう背景があったのではないでしょうか。

名誉会長: 新旧の思想の衝突だね。家庭で波が起きるからこそ、その思想は本物だとも言える。青年の頭のなかだけの観念的なものであったり、気休めや、一時の流行であったりしたら、生活の場である家庭には「新旧の対立」は、あまり起こらない。

遠藤: たしかに、「お地蔵さんを拝みに行きます」と言って、大問題になることはありません(笑い)。

須田: むしろ「信心深い、珍しい青年だ」と、ほめられるかもしれません(笑い)。

斉藤: しかし、現実を根底から変えゆく、生きた、革命的な宗教は、どうしても旧いものから反対されてしまいます。本物である証拠です。

名誉会長: もちろん非常識で、反社会的な運動に反対するのは当然です。そうではなく、一家の幸福のため、社会の幸福のために、道理をもって行動しても、何らかの波乱が起きる。これが「新時代を創る波」の宿命です。そして、一つ一つの家庭において、この対立の小さな波を乗り越えて、「一家和楽」を確立しきっていってこそ、社会の変革も磐石なものになる。
 広宣流布という「社会革命」は、一つ一つの「家庭革命」という巌の上に、盤石に建設されていく。

斉藤: 妙荘厳王品は「息子が父を教化する」というストーリーです。これは当時の人々にとっては、画期的なものだったと思います。
 中村元博士は、「従来のバラモン教の家父長制的な『家父長に対する一方的な絶対服従』の観念が、仏典では排除されている」と指摘しています。

名誉会長: 仏法では、家族のだれであれ、「すべて個人として平等に尊厳」と見る。非常に進歩的です。だからこそ、「先祖の宗教に従え」といった「家」中心の思想とは相いれない面がある。

須田: 仏法の考え方は、近代の人権思想と共通しています。人権思想の結晶である日本国憲法でも、個人の「信教の自由」を完璧に保障しています。

名誉会長: その意味では、「先祖の宗教」等と「仏法」がぶつかっているのではなく、「(個人の人権を認めない)旧いしきたり」と「人権」とがぶつかっている ---- それが実相かもしれない。ちょっと難しい表現になるが。

遠藤: 自分の信仰を貫いていくのは「人権闘争」なんですね。


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