一神教に関心ある人の広場



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


新着順:5/7


[3] ユニテリアンについて Ⅱ

投稿者: エムト 投稿日:2016年 1月31日(日)17時18分5秒 cts061209222159.cts-net.ne.jp  通報   返信・引用

管理人のエムトです。ユニテリアンに関する記事引用の続きです。引用にあたっては相変わらず改行を入れないので読みづらい点があるかもしれませんがご了承ください。

<矢野は佐伯藩士の家に生まれ慶応義塾で学び福澤諭吉門下として官吏になり明治14(1881)年(30歳)に下野した後も大隈重信を党首とする自由民権運動の政党・立憲改進党の結党メンバーとなり郵便報知新聞を政党機関紙とし(すでに明治9年に副主筆)、政治小説家、ジャーナリスト(晩年は「大阪毎日」副社長)として活躍した地元の名士です。宗教面では明治19(1886)年、同紙に連載した「周遊雑記」(国会開設を前に西洋諸国の諸制度を調査するために外遊したイギリスから送った海外通信)の下巻(宗教道徳の部)でユニテリアンの思想を、本格的という意味では日本で初めて紹介したそうです。当時の欧化主義的、功利主義的観点からユニテリアンの宗教を高く評価して日本の国教にしようと提案した人物だとも云われています。ちなみに明治20(1887)年に初めてユニテリアン派の宣教師として来日したナップという人物の思想はおかしなもので、キリスト教的であるどころか日本の神道寄りとさえ思われます。明治23年に日本に入ってきた米国の「ユニテリアン・ユニヴァーサリズム」はすでにキリスト教系教派としてのレベルを超えてしまっていたと思われます。そもそも福澤諭吉にせよ矢野龍渓にせよ神学は全くの門外漢であり、ユニテリアンのキリスト教内部における本来的意味など知らぬままに、無宗派で道徳的であるという点だけで評価したようです。ただし福澤は比較宗教研究への関心があり、それがユニテリアンに対する関心にもつながったようです。とにかく明治の開明的な人々は、日本にもヨーロッパに於けるキリスト教のような基軸となる宗教が必要であると感じ、古来の神道や仏教や儒教では役に立たないことを見抜き、ならばキリスト教というわけではないですが無宗派で寛容で合理的なユニテリアンならよいとみたようです。矢野龍渓の生家跡は独歩が下宿していた鶴谷学館の館長坂本邸の近くにあり、現在、旧坂本邸が国木田独歩記念館となっており、龍渓の生家跡には肖像画入りの案内板が立てられています。ところで、平凡社の『世界大百科事典』の「キリスト教文学」において、「明治20年代より盛んとなった自由主義神学、さらにはユニテリアンの思想は透谷をはじめ島崎藤村、国木田独歩らにも深い影響を与え、日本の土着の心性ともからんで一種の汎神論的思想や運命論的諦観へと彼らを傾斜させた」云々と記されていますが、透谷や藤村はともかく、独歩についてはいかなる根拠があってこのように言われているのか全く不明です。ユニテリアン(=ユニタリアン)は神学的にはトリニタリアンの反対語であり、キリスト・イエスの神格を認めず正統的教義の「三位一体」を採らない立場です。これが拡大解釈されてゆき、日本に入ってきたユニテリアン思想における「一」は、キリスト教の三一神教に対する単一神教という本来的意味の「一」ではなく、超宗教的・万教帰一といった普遍的意味の「一」になっていたようです。そこに福澤や矢野が注目したのです(ちなみに福澤の生家は浄土真宗本願寺派でした)。ユニテリアンは日本では惟一教と訳され、信者は惟一教徒とも言われました。日本初のユニテリアン教会とも言える「惟一館」(現在の「友愛会館・三田会館」)が東京の芝に建てられ、その開館式が行われたのは明治27年3月25日で、福澤諭吉はユニテリアンの道徳力に惹かれて宣教師のナップが来日した明治20(1887)年以来、ずっと支援していました。この開館式でも福澤はユニテリアン推薦の演説をしています。福澤はユニテリアンの神学校である自由神学校が先進学院と改名された時の、その名付け親になり、しかもその先進学院を慶応義塾のエクステンション(拡張講座)にしようと考えたほど入れ込んでいたのです(エクステンションも大学によって、単位が認定されるものとされないものとがあります)。慶応義塾のドイツ語教授で惟一教徒の向軍治によれば、福澤は慶応義塾の中にユニテリアンの神学部を置いて惟一館をユニバーシティー・エクステンションにしようと考えていたそうです。(中略)『世界大百科事典』の文言における「自由主義神学」というのは、具体的にはテュービンゲン学派の「普及福音教会」(1885年「普及福音新教伝道会〔AEPMV〕」スイス人宣教師W・シュピンナー来日)を指していると思われ、宗教史学派との関係も指摘されていますが、一般的にはこれと「ユニテリアン」(1887年「アメリカ・ユニテリアン協会〔AUA〕」宣教師A・M・ナップ来日)、さらに「宇宙神教」とも呼ばれ「日本同仁基督教会」と改称した「ユニバーサリスト」(1890年「アメリカ・ユニヴァーサリスト(協会)〔UGC〕」宣教師G・L・ペリン来日)の3派を総称して「新神学」あるいは「自由神学」とか「自由キリスト教」と云われています。海老沢有道氏と大内三郎氏の共著『日本キリスト教史』(日本基督教団出版局)でも、「ひとくちに『新神学』といっても、それはかならずしも一定の教派教会の神学をさすわけではなく、その輪郭も内質も漠然としていてはっきりしない」と言われています(p316参照)。(中略)ところで、明治時代に日本に入ってきたユニテリアンは「普遍宗教」(universal religion)を志向していたと云われています。だからユニバーサリストと一致したのです。実際的には社会主義と結びつきますが、それは本来のユニテリアンの性格と直接の関係があるのではなく、日本人にとってユニテリアンに代表される自由主義キリスト教は、イエスの教えを教理としてではなく社会実践として受けとめ応用するものであったというのが実態でしょう。要するにキリスト教社会主義です。彼らの関心には三位一体の問題といった神学的な事柄はほとんど含まれていなかったと思われます。ちなみに、後に新神学の影響を受ける同志社英学校では、ナップが来日する3年前の明治17(1884)年3月に「信仰復興(リバイバル)」が起きたそうです。中には発狂して死んだ者もいたそうです。後に新神学の影響を受けて社会主義者になる安部磯雄も経験しましたが熱狂的にはならなかったそうです。話は変りまして、神道国教化政策は明治の初めからありますが諸事情で停滞していました。しかし大日本帝国憲法と教育勅語が発布される明治22(1889)~23(1890)年以降、絶対天皇制が台頭する時期に入ると(国家神道は明治からだが、天皇制ファシズムが顕著になったのが昭和初期であり、天皇機関説事件に伴う国体明徴運動および「国体の本義」における天皇の「現人神」化〔加藤玄智〕による)、矢野はユニテリアンから手を引いたと云われています。いかに宗教的に寛容で普遍性あるユニテリアンであってもキリスト教系であることに変わりなく、これをあからさまに支持することはさすがに憚られる社会的雰囲気になってきたのです。矢野だけではなくユニテリアンを支援してきた貴族や政府高官は、明治24(1891)年1月に起きた内村鑑三の不敬事件によるキリスト教全体に対して風当たりが強くなったことも併せてユニテリアンから離れたようです。こうして矢野は国教化の志を棄てたのです。従って独歩と初めて接触した時の矢野はその方面で感化を与えることはなかったと思われます。福澤がユニテリアンから手を引くというか関心を失くしたのは明治30(1897)年11月頃だそうです。その主たる理由は、福澤諭吉がそもそもユニテリアンに関心を抱いた最大の理由と関連しています。それは道徳力です。しかもそれは教育勅語のような上から押し付けられたものではなく、良心の自由を認めるものでした。福澤は教育勅語には賛成せず、彼が認める天皇制は現代の象徴天皇制に近かったと云われます。まさに福澤自身、先進的だったのです。ところが共にそうあるべきユニテリアンの宣教師たちは、日本で教育勅語が発布されることによりこれに従ったのです。彼らの欠陥はその寛容すぎる相対主義的思考にありました。かくして福澤はユニテリアンの年来の主張であったはずの日本に於ける「道徳改革」をめぐって宣教マコーリィと見解が分かれてしまったのです。しかしそれよりも、マコーリィの前任者であるナップは、明治32(1899)年の条約改正で内地雑居が実施され、日本人が欧米諸国の人々と平等に交流できるようになることから、慶応義塾とハーヴァード大学との提携の話を持ち出して福澤を喜ばせ完全にその気にさせたのですが、その提案を自ら裏切り、福澤を大いに落胆させたことが原因と云われています。(中略)ところで、明治24年といえば、海老名より約1歳下だが同じ熊本バンドの一人で同志社英学校を同じ年に卒業した金森通倫が、新神学への転向表明と言える『日本現今之基督教並ニ将来之基督教』を著した年でもあります。この著書はユニテリアンの印刷所から出されたと云われています。翌年の5月のマコーリィ(=ナップの後継者)の書簡に、金森通倫が数カ月前にやって来てユニテリアンが目的において真にリベラルであるので一緒に働きたい旨を言ったので9月に仕事を始められるように準備したところ、金森は約束を破って政界入りし自由党の議員になってしまったと嘆いたそうです。金森の『回顧録』によると逆にマコーリィが金森のところに来てユニテリアン教会を任せたい旨の依頼をしてきたが、金森はユニテリアン派に入って正統派に対抗しようなどとは全く考えてもいなかったのですぐに断わったとのことです。どちらが本当かは知りませんが、少なくとも金森という人物はあまり信頼できる人物ではなかったようで、明治45(1912)年に組合教会に復帰したかと思えば、その2年後の大正3(1914)年には救世軍に入隊し、昭和2(1927)年には東洋宣教会 日本ホーリネス教会に入会して積極的に伝道活動しますが、昭和8(1933)年には両方とも脱退して仙人のような洞窟生活に入り昭和20年3月、89歳で亡くなっています。新神学から福音派までの極端な振幅は、精神面に於いて尋常とは思えません。金森が日本組合基督教会(明治19〔1886〕年結成)から退会したのは前掲著書の出た翌年で、その年に自由党入りしますが翌年には出ています。何ごとにも熱しやすく冷めやすいタイプの人だったのでしょうか。金森と同じく組合教会を脱退した大西祝は帝大の哲学科に進み卒業後、明治24(1891)年から東京専門学校で教え、島村抱月や綱島梁川を育てたそうです。独歩が東京専門学校に入学したのが明治21(1888)年5月で、退学したのが明治24(1891)年3月なので、大西とは入れちがいになったものと思われます。大西は、前述のユニテリアン神学校である先進学院でも倫理学と哲学史を教えたそうです。>(~webサイト「国木田独歩語録(信仰篇)」)

ちなみにWikipediaなどによると、日本女子大学の創立であり、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」では成澤泉のモデルになっている成瀬仁蔵氏は教会も創立して牧師をした人ですが、1890年代の米国留学の時期にユニテリアン思想にふれて帰国後は「帰一協会」という団体を設立しています。この団体の主旨からしても、上記の引用文中で<日本に入ってきたユニテリアン思想における「一」は、キリスト教の三一神教に対する単一神教という本来的意味の「一」ではなく、超宗教的・万教帰一といった普遍的意味の「一」になっていたようです。>と言われているように、当時の日本人が影響を受けたユニテリアン思想なるものは神学的な意味ではなく宗教・道徳の思想を統一したようなイメージではなかったかと想像されます。そもそも矢野にせよ福澤にせよ、その他の人々にせよ、およそキリスト教の「トリニティー」を中心とする教義には無関心以前に知識が乏しかったであろう人々が推奨した「ユニテリアニズム」なるものに神学的な意味があろうはずもなく、またアメリカからの宣教師達も神学的にはあまり関心がなく、あるいは宣教論的に意図的に統一思想的な意味づけをしたのではなかったのか、との疑問を感じます。
なお、当サイト「日本ユニタリアン聖書教会」は、その名称から所謂「聖書的ユニテリアン」と言われるタイプに該当すると思われるかも知れませんが、必ずしもそういうわけではありません。




新着順:5/7


お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.